源頼朝が征夷大将軍に任命されるまで

 

鎌倉幕府を築いた

源頼朝は1192年に征夷大将軍に任命されました。

源氏が壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした1185年が実質的には鎌倉幕府の始まりだと言えるかもしれませんが、

奥州を平定したのは1190年なので征夷大将軍になった年が鎌倉幕府のスタートだと思います。

その、源頼朝が征夷大将軍に任じられるまで7年もかかっています。

なぜそんなに年月を費やしたのでしょうか。

頼朝が征夷大将軍になりたかった理由を含めその謎を考えてみましょう。

 

源頼朝と征夷大将軍

征夷大将軍とは

まず、征夷大将軍という役職について見てみましょう。

征夷大将軍とは、

「 蝦夷つまり北の地方を開拓し、統括する大将軍 」

という意味です。

朝廷の律令の令制に規定のない官僚のことを言います。

つまり朝廷のいいなりにならなくて良いというわけですね。

奈良時代の終わりに大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が初めての征夷大将軍を任命されています。

その後、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が任命されて以来途切れていた役職なのです。

頼朝が征夷大将軍にこだわった理由

奥州を平定した頼朝は、伊豆に流人となって流されて以来初めて京にのぼりました。

朝廷は頼朝に権大納言兼右近衛大将の位を与えます。朝廷側にとっては最大限の歓迎の仕方でした。

権大納言は太政官(日本の律令制における司法・行政・立法を司る最高国家機関)で、近衛大将は朝廷の警護などを司る官職です。

頼朝は1度はそれを受けますが、すぐに辞めています。

この官職では朝廷に縛られ、朝廷を警護するばかりで鎌倉へ戻ることができないと判断したからです。

その上彼には関東での武士の総取り締まり役として諸国に君臨する狙いがありました。

ですから大将軍という肩書きがどうしても欲しかったのです。

その後、頼朝は後白河院と8回の対面をし、朝廷と幕府の間のわだかまりを解くよう努めました。

それでも征夷大将軍の任は与えられず、諸国を守護するということだけが許されただけでした。

後白河院には頼朝の狙いがわかっていたのでしょう。

朝廷としては頼朝の、いえ、武士の台頭する世の中にするのは絶対に認めたくないことでした。

征夷大将軍へ

一旦諦めて鎌倉へ戻った頼朝でしたが、

1192年ついに悲願は叶います。

最後まで認めなかった後白河院が崩御したのです。

これでやっと将軍がおさまり鎌倉幕府が名実ともに始まることとなったのでした。

ようやく朝廷の意思なく自分の政策を進めることができるようになったのです。

これ以降、頼朝の政権は制度化されていきます。

それに伴い朝廷の力は弱まり、幕府として実権を握った武家社会が続くのです。

王政復古まで約680年もの間、武家は朝廷を抑え政権を握るのでした。

きょうのまとめ

朝廷の圧力がない新たな武家社会を築いたのは源頼朝だったんですね。

これ以降江戸時代が終わるまでこの制度は続くのですから、
頼朝がやってのけたことはすごいことです。

北条氏に操られていたとばかりイメージがある源頼朝が、
本当はすごく偉大なる人物だったんだと改めて尊敬します。

幕府を開いた人であるなら偉大な人物であることはいうまでもないことですが、
彼を取り巻く人々の存在が大きく、頼朝自身の影が薄く感じられていたのも事実です。

弟の義経をはじめ、妻の北条政子やその身内である北条氏など、
頼朝よりもエピソード的に目立つ人に圧倒されていましたから。

それでも頼朝が築き、長年続くこととなった武家社会の始まりを作ったことは、彼の偉業と言えるでしょう。

 

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