源頼朝の弟義経の壇ノ浦での活躍とその後

 

鎌倉幕府を開いた源頼朝には、何人もの兄弟がいましたが、

中でも義経という人物は一味違っていました。

彼は頼朝以上に伝説や逸話の多い人で、
物語の中では今でもヒーローです。

事実、平家討伐となった壇ノ浦の戦いでの一番の功労者と言ってもいいほどです。

その義経がどのような働きをしたのか、
また頼朝とはどう関わっていたのかを調べて見ましょう。

 

頼朝と弟義経の関係

源義経とは

牛若丸という人のお話を聞いたことがあるでしょうか。

まさにその人が源義経です。頼朝とは異母兄弟となります。

彼は源義朝の9男で、一時鞍馬寺に預けらるのですが、
僧侶になるのを嫌い奥州平泉へ行き藤原秀衡の庇護を受けていました。

鞍馬寺で名乗った稚児名は遮那王(しゃなおう)でした。これも聞いたことがある名前ですね。

その後京都で武蔵坊弁慶と出会い、彼を配下にしたことも有名です。

お話の中では、美少年だったと言います。また静御前とのラブストーリーもよく物語になります。

そういう意味で頼朝よりも、逸話の多い人物だったと言えるのです。

義経の働き

頼朝が平氏討伐の挙兵をすると、一目散に駆けつけ兄の手助けをしました。

1185年の壇ノ浦の戦いで、水軍を率いて戦ったのは義経です。
平氏500隻に対し、義経の軍は850隻でした。

最初は平氏の方が優勢に見えましたが、
潮の流れが変わると義経は一気に攻撃をします。

一説には平氏の海軍100隻が源氏に寝返ったとも言われています。

敗北を覚悟した平清盛の正室二位尼や娘の建礼門院は幼い安徳天皇を抱いて海に身を投げます。

これで平氏は滅亡し、頼朝の時代がやってきたのでした。

この大事な戦いに、頼朝は鎌倉にいて直接采配を振るったわけではなかったようです。

頼朝と義経の確執

壇ノ浦の働きで、武功を挙げた義経は京都で朝廷から官位を授けられました。

兄の頼朝は自分の許可もない間に義経が官位をもらったことに腹を立てます。

頼朝は義経を京都に止まらせ鎌倉への帰参を許しませんでした。

これは朝廷が仕組んだ兄弟喧嘩だったと言えるでしょう。

頼朝は朝廷とは独立した武家社会を築こうと考えていたにも関わらず、

義経は朝廷の言いなりに官位をもらったことによって朝廷に逆らえないようになったのです。

頼朝がこれ以上力をつけては、朝廷としても恐ろしい存在になることがわかっていたからでしょう。

それゆえ源氏の力が結束することを阻止しようと企てたものだと考えられます。

これを機に、兄弟は仲違いし、頼朝は義経に何かと理由をつけて遠ざけます。

義経は、奥州平泉の藤原氏を頼っていくのですが、

彼を擁護していた秀衡の死後、頼朝の追及を受けた新しい当主の藤原泰衡に攻められ、
ついに衣川館で妻子とともに自刃して果てるのでした。

享年31歳でした。

頼朝はこの時、奥州で力を持っていた藤原氏が邪魔でした。

そこで義経追討と同時に藤原氏を潰すことで一石二鳥を狙ったのです。

その末、奥州合戦で藤原氏は滅亡しています。

きょうのまとめ

兄のために壇ノ浦で戦い武功を挙げた義経でしたが、その後は悲しい運命を辿ることになったのです。

義経を悲劇の主人公にして、
兄頼朝を悪者にした人々は、「 判官贔屓 」(ほうがんびいき)という言葉を使い義経に同情するのでした。

しかし実のところは、頼朝には義経に腹をたてる事情もありました。

義経の兄を無視し出すぎた態度などが目に余ったと言います。

一概に頼朝を悪人とは言えないでしょう。

頼朝の弟の中には義経のように謀反人として討たれた人もいます。

これも時代のせいなのかもしれませんが、
頼朝の背後にいる北条一族が何かしらの影響を与えていたのではないか

と想像してしまうのは考えすぎでしょうか。

 

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