桂太郎とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

明治末期、西園寺公望さいおんじきんもちと交互に首相を務め、桂園けいえん時代と呼ばれる一時代を築いた政治家

桂太郎かつらたろう

「ニコポン宰相」「明治陸軍の三羽烏」

と、インパクトのある二つ名を有する人物です。

その正体は、軍人から身を起こし、戦前の日本の発展に欠かせない国際体制を築き上げた敏腕首相。

今回は桂がいったいどんな人物だったのか、その生涯と功績に迫ります。
 

桂太郎はどんな人?

プロフィール
桂太郎かつらたろう

正装である正衣を着用した桂
出典:Wikipedia

  • 出身地:長門国阿武郡ながとのくにあぶぐん萩町(現・山口県萩市)
  • 生年月日:1848年1月4日
  • 死亡年月日:1913年10月10日(享年66歳)
  • 明治時代、陸軍の基礎を担った軍人。内閣総理大臣を務め、日露戦争の勝利や不平等条約の改正など、日本の地位を多大に向上させた功績を持つ。

 

桂太郎 年表

年表

西暦(年齢)

1848年(1歳)長州藩士・桂與一右衛門よいちえもんの長男として生まれる。

1860年(13歳)長州藩士からなる部隊・撰鋒隊せんぽうたいに編入される。

1864年(17歳)次期藩主・毛利元徳もとのりの小姓(世話係)となる。第二次長州征伐に参戦。

1868年(21歳)戊辰戦争に参戦。庄内藩、仙台藩相手に東北地方を転戦する。

1869年(22斎)横浜語学学校へ通う。

1870~73年(23~26歳)ドイツ帝国へ留学。

1874年(27歳)陸軍省、陸軍参謀局へ勤務する。

1875年(28歳)ドイツ公使館付武官となる。

1878年(31歳)陸軍卿・山縣有朋やまがたありとものもとで参謀本部設置などに尽力。軍政に携わるようになる。

1884年(37歳)陸軍卿・大山巌おおやまいわおに随行し、ヨーロッパ各国の兵制を視察。

1885年(38歳)陸軍省総務局長となる。

1886年(39歳)陸軍次官となる。

1894年(47歳)陸軍第3師団長として、日清戦争へ従軍。

1896年(49歳)台湾総督となる。

1898年(51歳)陸軍大将となる。第3次伊藤内閣にて、陸軍大臣に就任。続く大隈、山縣内閣でも歴任する。

1900年(53歳)政務に対する心労、政党政治への反感から政界を離れる。同年、台湾教会学校(現・拓殖大学)を創設。初代学校長を務める。

1901年(54歳)明治天皇より組閣の大命が下り、第一次桂内閣が発足。商業会議所の設置法を成立させる。

1905年(58歳)日露戦争に勝利。ポーツマス講和条約を結ぶ。

1908~1911年(61~64歳)第二次桂内閣を組閣。日韓併合、不平等条約の改正などを達成する。

1912~1913年(65~66歳)第三次桂内閣を組閣。しかし、藩閥政治への反感から第一次護憲運動が起こり、総辞職を余儀なくされる。

1913年(66歳)港区三田の自宅にて病没する。

 

桂太郎の生涯

1848年、桂太郎は長州藩士・桂與一右衛門よいちえもんの長男として生まれます。

桂家は藩主・毛利家から枝分かれした庶家にあたり、父與一右衛門も重臣として重宝されていました。

そんな出自のもと、桂は長州藩の正規部隊である撰鋒隊せんぽうたいに入り、17歳のころには次期藩主・毛利元徳もとのりの小姓役も務めます。

新政府で政権を掌握する長州藩のエリート家系という、典型的な勝ち組の生まれだったわけですね。

戊辰戦争に参戦

1868年、戊辰戦争が勃発すると、桂は奥羽鎮撫総督おううちんぶそうとくに従い、東北地方を転戦。

主に偵察や連絡などの後方支援を担当しました。

しかし、奥羽列藩同盟を締結した諸藩の抵抗により、新政府軍はこの局面で大いに苦戦を強いられることとなります。

最終的に援軍が駆け付けるまでを凌ぐのが手いっぱいで、桂自身、不甲斐なさから自刃を考えるほどだったという話。

結局は新政府軍に軍配が上がったものの、桂としてはあまり活躍できない経験に留まったようです。

陸軍軍政改革に尽力

維新後、桂は横浜語学学校で外国語を学んだのち、3年間のドイツ留学を経験。

さらに帰国後、陸軍へ入隊するとドイツ公使館付武官となり、ドイツ式の兵制への理解を深めていきます。

桂はこれらの知見をもって陸軍卿・山縣有朋やまがたありともを支え、参謀本部の独立などに貢献。

川上操六そうろく、川崎祐名すけなと並んで「明治陸軍の三羽烏」と呼ばれるほどの影響力を見せます。

日清・日露戦争と連勝を重ねていく日本軍の強さは、この時期に確立されていったといっていいでしょう。

その手腕をもって、1896年には台湾総督に。

1898年に第三次伊藤内閣が成立すると陸軍大臣となり、陸軍大将の階級まで上り詰めました。

その後、第一次大隈内閣、第二次山縣内閣においても陸軍大臣を歴任しましたが、1900年に辞任。

この年に結党された立憲政友会を与党とする内閣に不信感を抱いたことが、政務から退こうと考えた主因とされています。

ここまでの政府は、薩摩藩・長州藩出身者が権益を握る藩閥体制。

このあたりから、

「薩長閥以外にも参政権を!」

と主張する政党が現れだすのですが、桂はこの流れに不満があったようですね。

三度の内閣総理大臣を経験

一時は政界を離れようとした桂でしたが、1901年、明治天皇から組閣の大命が下されると、内閣総理大臣に就任

この人選は、長州藩出身の山縣有朋、伊藤博文が元老として名を連ねていたことが決め手になったといいます。

(※元老…首相の人選など、国家の重要事項を担う天皇の重臣)

前述のように、藩閥政治が問題視されていた時勢もあり、桂の首相就任には批判の声も多々ありました。

山縣有朋の犬という意味で、「小山縣」などとバカにした呼び方もされていたり…。

しかし、桂はそんな逆境を跳ね除け、4年の任期を全う。

日英同盟の締結や、立憲政友会との協力体制をもって、日露戦争を勝利に導きます。

その後、桂の推薦によって後任首相を立憲政友会総裁・西園寺公望が務めることに。

実のところ、桂は日露戦争後に政権を譲る約束で立憲政友会の協力を取り付けており、ここから西園寺と協調しつつ、交互に内閣を担っていくこととなるのです。

ここから始まった「桂→西園寺→桂→西園寺→桂」という一連の流れは、桂園けいえん時代と称されました。

なかでも桂に如実な活躍があったのは、第二次桂内内閣において。

新政府成立以来の問題となっていた不平等条約の改正を成し遂げたほか、日韓併合など、日本の国際的地位を大きく押し上げる功績を残すのです。

一方、明治天皇の暗殺計画露呈を理由に社会主義者らが検挙された「大逆事件」では、結果的に多数の冤罪を生んでしまうという黒歴史もあったりするのですが…。

桂園時代の終結


二期連続任期満了という快挙を成し遂げた桂園時代は、第三次桂内閣をもって終結を迎えることとなります。

きっかけは第二次西園寺内閣が陸軍と衝突したことです。

陸軍はロシアや中国の動向を意識し、二個師団の増設を提案するのですが、西園寺内閣は財政難を理由にこれを却下。

すると陸軍は陸軍大臣・上原勇作を辞任させることで抗議、内閣不統一によって西園寺内閣が総辞職にいたります。

こうして1912年、後任として第三次桂内閣が成立するのですが、このとき、陸軍を牛耳っていたのは山縣有朋。

桂は「小山縣」と揶揄されていたように、山縣とはかなり密接な関係にありますよね…。

そう、

「また長州閥の専横がはじまった!桂は山縣の言いなりで、軍備拡張を無理にでも推し進める気だぞ!」

と、批判にさらされてしまうのです。

ここから薩長閥の打倒を目指した「第一次護憲運動」が勃発。

立憲政友会・尾崎行雄、立憲国民党・犬養毅らによって内閣不信任案が提出され、1913年2月11日、第三次桂内閣はわずか62日で解散することとなります。

桂もあの手この手で対抗しようとしたのですが、最後は国会議事堂に国民が押し寄せる事態に発展し、辞職せざるを得ず。

そして、奇しくも同年10月、胃がん脳血栓によって生涯を終えることとなりました。

 

桂太郎にまつわる逸話

桂太郎には、その功績を物語る興味深い逸話がいくつも残されています。

ニコポン宰相と呼ばれた所以


桂の「ニコポン宰相」というニックネームは、その独特な人心掌握術からくるもの。

なんでも、桂は他人を説得する際、

「笑顔で近付いて背中や肩に「ポン」と手を触れる癖」があったという話です。

また、この異名は、多方面との関係をうまい具合に保つ政治手腕を表したものだともいわれます。

元老を味方につけて首相となり、政党政治を嫌いながらも立憲政友会と協力して政治を行っていく。

首相としてどう振る舞うことが国にとって最善なのかという、バランス感覚に優れた政治家だったことが垣間見えます。

その証拠として、桂の通算在職期間は2886日にも及び、現在も歴代二位の長さを誇っています。

ちなみに歴代一位は安倍晋三前首相。

令和元年に安倍首相が記録を塗り替えるまで、桂は史上一番長く首相を務めた人物だったのです。

拓殖大学の創設者だった!


桂は1900年、政界を一度離れようとしていた時期に、現在の拓殖大学にあたる台湾教会学校の創設に携わっています。

拓殖大学は当初、台湾の開拓を推し進める人材を育てるための学校として作られました。

桂は台湾総督の経験から、その必要性に駆られたのでしょう。

また、1909年からは公益財団法人・がん研究会の総裁も務め、医療の発展にも貢献しています。

日本をよりよい国にするため、政界以外からも多方面でアプローチしていたのですね。

 

きょうのまとめ

長州のエリート藩士という生まれと、陸軍の礎を築いた功績から名を立てていった桂太郎。

首相として、日本の国際的地位向上に欠かせない働きをした人物でもありました。

最後に今回のまとめです。

① 桂太郎はドイツの兵制を学んだのち、参謀本部の独立など、陸軍の組織としての基礎を築いた。その影響力から陸軍大臣まで上り詰める。

② 三度に渡って首相を務め、日露戦争の勝利、不平等条約改正など多大な功績を残した。他勢力との関係を良好に保つ人心掌握術から「ニコポン宰相」と呼ばれた。

③ 拓殖大学の創設、がん研究会総裁を務めるなど、政治以外でも多方面で社会貢献をしている。

藩閥政治など、物議を醸す部分も多かった桂ですが、その生涯からは、真に国を想った政治家像を垣間見ることができました。

 
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