シャー・ジャハーンとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

300年以上に渡り安定した国家を築いたインドのイスラム国家、ムガル帝国。

その最盛期に皇帝として即位したのが、第5代皇帝シャー・ジャハーン

あのインドの代表的な建築物、「タージ・マハル」を建てた皇帝です。

シャー・ジャハーンとは一体、どのような人物だったのでしょうか。

今回はその生涯について、主な功績やエピソードと共にご紹介していきます。

 

シャー・ジャハーンはどんな人?

プロフィール
シャー・ジャハーン

シャー・ジャハーン
出典:Wikipedia

  • 出身地:インド ムガル帝国
  • 生年月日:1592年1月5日
  • 死亡年月日:1666年1月22日(享年74歳)
  • インドのムガル帝国第5代皇帝。愛妃のためにタージ・マハルを建設。

 

シャー・ジャハーン 年表

年表

西暦(年齢)

1592年(0歳)インドのムガル帝国第3代皇帝、アクバルの孫として誕生。

1598年(6歳)生母から離され、次期君主にふさわしい教育を受け始める。

1610年(18歳)第4代皇帝である父、ジャハーンギールの政治に携わり始める。

1612年(20歳)愛妃ムムターズ・マハルと結婚。

1616年(24歳)アフマドナガル王国との領土問題を巡り、デカン地方に遠征。

1619年(27歳)アフマドナガル王国との戦争開始。

1622年(30歳)父帝に対して反乱を起こす。

1626年(34歳)皇帝軍に降伏。デカン地方に留まることになり、2人の息子を人質にとられる。

1628年(36歳)父帝の死、後継者争いを経て第5代皇帝に即位。

1632年(40歳)デカン地方に再び遠征。タージ・マハルの建設開始。

1648年(56歳)シャージャハーナバード(現在のデリー)を建設し、遷都。

1654年(62歳)タージ・マハル完成。

1657年(65歳)重病を患いデリーで生死を彷徨う。

1658年(66歳)体調は回復するも皇子たちの後継者争いに巻き込まれ、アーグラ城に幽閉される。

1666年(74歳)病が再発し、死去。

 

シャー・ジャハーンの生涯

ここからは早速シャー・ジャハーンの生涯について、主な功績を辿りながら見ていきましょう。

皇子時代

1592年、かつてインドに存在したイスラム王朝、ムガル帝国に誕生したシャー・ジャハーン。

彼の生まれたときの名を、フッラムと言います。

時の皇帝として国を治めていた彼の祖父アクバルは、領土拡大や官僚制度を整備し、帝国の最盛期の基礎を築いた人物でした。

そんな祖父の元に生まれ育った少年時代のシャー・ジャハーンは、6歳の頃にはその才気を認められ、いずれ皇帝になるにふさわしい教育を受けることになります。

そして1605年に祖父が崩御すると、父親ジャハーンギールが皇帝として即位。

その5年後には父帝が病気がちになったことで、シャー・ジャハーンは叔父や宰相らと共に実質的な政治に携わっていくことになります。

皇子時代の彼の功績として挙げられるのが、デカン地方への遠征です。

祖父アクバルの時代に、ムガル帝国はこのインド中央~南にかけて広がる地域に領土拡大を目指して介入していきました。

そしてシャー・ジャハーンも10代後半になると、この地域に存在していたいくつかの王国に対して度々遠征を行っています。

なかでも、アフマドナガル王国という国とは何度も衝突し、そのたびにシャー・ジャハーンが軍を指揮していました。

第5代皇帝に即位

シャー・ジャハーンが正式に皇位を継承したのは1628年、彼が36歳のときでした。

しかし、皇帝即位までの道のりは決して平坦ではありませんでした。

シャー・ジャハーンはデカン地方遠征を行っていた皇子時代、父である先帝に対して反乱を起こしています。

それは、遠征による手柄を巡って兄弟間で発生したトラブルとも関係しますが、父から不当な扱いを受けたと解釈した彼は首都に向けて出陣したのです。

結果的にこの反乱は失敗に終わり、シャー・ジャハーンは降伏。

皇帝からの様々な条件を飲むことになり、その中には

・デカン地方に在留

・息子2人を人質として宮廷に送る

ことも含まれていました。

しかしその後、皇帝に対するクーデターは他の人々によっても発生。

皇帝が幽閉されたことで、兄弟間でも次期皇位を巡る争いは過激さを増していきました。

裏切りや寝返り、兄の死や皇帝の死による血なまぐさい闘争の末、シャー・ジャハーンはようやくその座に就いたのです。

ちなみに「世界の皇帝」を意味するこの名前は、即位に際して名乗ったのが始まり。

その名にふさわしく、彼の即位式は歴代の皇帝を凌ぐ豪華さで、ヨーロッパの人々からは「壮麗王」とも称されました。

黄金時代

シャー・ジャハーンの統治した時代は、ムガル帝国史のなかでもインド・イスラーム文化の黄金時代と言われています。

・デカン地方への領土拡大

・財政システムの改革

・木綿産業の発達による海外貿易

等に伴い、この時代は宮廷を中心として帝国が最も華やいだ時代なのです。

その代表的な痕跡とも言えるのが、「タージ・マハル」でしょう。

これは世界で最も美しい建築物とも言われますが、シャー・ジャハーンが愛妃ムムターズ・マハルのために建てたお墓なのです。

20歳のときに結婚した二人はとても仲が良いことで知られており、一夫多妻制であるにも関わらず、シャー・ジャハーンは彼女との間に14人の子供を授かっています。

しかし彼が皇帝に即位して僅か数年後、若くして彼女は亡くなってしまったのです。

するとその遺言に従い、シャー・ジャハーンは後世にも残るような立派なお墓の建設に着工します。

・外観は全面白大理石

・左右対称にこだわる計算しつくされた設計

・全28種の宝石類を使用

・繊細な象嵌ぞうがん細工

等々。

当時の東方イスラム地域最高の職人たちが集められ、約22年という歳月をかけてこの巨大な霊廟は完成したのでした。

 

幻のタージ・マハル

ここではシャー・ジャハーンの人物像をもう少し探るために、彼にまつわる逸話をひとつご紹介します。

39歳の時に最愛の妃を失ったシャー・ジャハーン。

彼はこの時、髭に数本しかなかったはずの白髪が一度に真っ白になり、1週間はほとんど鬱の様な状態だったと言われてます。

その後もかつての様な政治的意欲は薄れ、タージ・マハル建設に莫大な資金と労力をつぎ込みます。

さらにはハレムに多くの側室を抱え、家臣の妻たちとも関係を持つという生活を20年以上続けました。

そんな彼には一つ大きな夢がありました。

それは、最愛の妻のために建てた白のタージ・マハルの向かいに、自身の墓となる黒のタージ・マハルを建てることでした。

しかし既に財政を圧迫していた彼の夢は、遂に叶うことはなく幻となります。

散財を続けていたシャー・ジャハーンは、65歳の頃に病に倒れると、そこから息子たちによる後継者争いに巻き込まれていったのです。

次期皇帝となる息子、アウラングゼーブに幽閉され、その後亡くなるまでをタージ・マハルの見える部屋で過ごすことになりました。

 

きょうのまとめ

今回は、インドのムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンについて、主な功績やエピソードと共にその生涯を辿ってきました。

いかがでしたでしょうか。

新たな発見はありましたか。

最後に、シャー・ジャハーンとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると

① インドのムガル帝国第5代皇帝。

② 祖父、父の代に続いて帝国の黄金時代を築いた。

③ 愛妃のために建てた霊廟「タージ・マハル」は、インド・イスラム建築の傑作。

実の息子によって皇位をはく奪され、約8年の幽閉生活の末に亡くなったシャー・ジャハーン。

彼の遺体は幻となった黒のタージ・マハルではなく、白のタージ・マハルの中、最愛の妻の棺の隣に今も安置されています。

 
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