山県有朋とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

明治維新を経て政府の一員となり、陸軍の創設から内閣総理大臣までに携わり、明治・大正の世に多大な影響をもたらした

山県有朋やまがたありとも

一介の下級武士から身を起こし、軍事と政治のトップまで上り詰めたその経歴はほかに類を見ません。

国の重責を背負い続けた生き様、その山あり谷ありの人生からは学ぶものも多いはずです。

山県有朋はどんな人だったのか、今回はその生涯に迫っていきましょう。

 

山県有朋はどんな人?

プロフィール

山県有朋
出典:Wikipedia

  • 出身地:長門国阿武郡ながとのくにあぶぐん川島村(現・山口県萩市川島)
  • 生年月日:1838年6月14日
  • 死亡年月日:1922年2月1日(享年83歳)
  • 日本の陸軍の基盤を築いた人物。内閣総理大臣も二度務め、軍事・政治ともに明治・大正の日本に多大な影響を与えた。

 

山県有朋 年表

年表

西暦(年齢)

1838年(1歳)長州藩の下級武士・山県有稔ありとしの長男として萩城の城下町・阿武郡あぶぐん川島村(山口県萩市川島)にて生まれる。

1853年(15歳)元服し長州藩の手子役(雑用係)を務める。

1858年(20歳)京都へ派遣され、尊王攘夷そんのうじょうい思想を学ぶ。同年、吉田松陰の松下村塾に入塾。

1863年(25歳)高杉晋作が創設した奇兵隊に参加。軍監・壇ノ浦支営の司令を務める。

1864年(26歳)下関戦争で外国艦隊相手に応戦。同年、幕府による長州征討に際し、藩内は俗論派、正義派に分かれ対立が起こる。

1866年(28歳)第二次長州征討にて幕府と戦う。

1868年(30歳)戊辰戦争に参加し、諸藩兵の指揮を執る。

1869年(31歳)薩摩藩士・西郷従道つぐみちと共に留学し、欧州各国を巡遊。

1870年(32歳)兵部省次官に就任。

1872年(34歳)兵部省が陸軍省・海軍省に分かれ、山県は陸軍大輔だいゆうとなる。

1873年(35歳)政府と関りのあった商人の借金問題への関与が疑われ、陸軍大輔を辞任。しかし山県の必要性を理解していた幹部により、長官職である陸軍卿りくぐんきょうに命じられる。

1874年(36歳)大久保利通おおくぼとしみちの推薦で朝廷最高機関である参議に就任。

1877年(39歳)西南戦争の指揮を執り、政府軍を勝利へ導き、勲一等旭日大綬章くんいつとうきょくじつだいじゅしょうの勲章を与えられる。

1878年(40歳)近衛歩兵大隊が待遇への不満を理由に暴動を起こし、陸軍卿を辞任。

1882~1884年(44~46歳)伊藤博文が海外視察により辞任し、代わりに参事院議長を務める。後に内務卿に転任し、陸軍参謀本部長など要職を兼任。

1885年(47歳)第一次伊藤内閣が成立。内務大臣へと役職名が変更される。

1888~1890年(50~52歳)市町村制、府県群制を公布。施行・市町村の合併などに尽力する。

1889~1891年(51~53歳)内閣総理大臣を務め、日本初の帝国議会に参加。1年5ヵ月の任期で辞任する。

1894~1895年(56~57歳)日清戦争が勃発し、第一軍司令官として従軍。体調不良を理由に途中帰国するが、勲章を与えられる。

1896年(58歳)ロシア皇帝・ニコライ2世の戴冠式に出席。ロシアと交渉し、山県・ロバノフ協定を結ぶ。

1898年(60歳)軍人の最高位である元帥の称号を与えられ、終身現役軍人となる。

1899年(61歳)二度目の内閣総理大臣に就任。地租増徴、文官任用令の改正、治安警察法の制定などを行う。翌年辞任。

1901年(63歳)直系の部下である桂太郎が首相に就任。日英同盟の締結に協力するなどの支援をする。

1904年(66歳)日露戦争が勃発。戦争指導の中枢となる陸軍参謀総長を務める。

1905~1922年(67~83歳)枢密院議長として首相の選定などをはじめ、晩年まで政治に関わり続ける。

1922年(83歳)肺炎・気管支拡大症により小田原の別荘にて死没。

 

山県有朋の生涯

1838年6月14日、山県有朋は長門国の萩城下近郊、阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)にて、下級武士・山県有稔の次男として誕生します。

母を5歳で亡くした有朋は、幼少期のほとんどを祖母によって育てられました。

また父は武士としての身分こそ低かったものの、国学に秀でており、有朋もよく学んだといいます。

武芸ひとつで身を立てた青年期

15歳を迎えて元服してからは、父と同じく長州藩士になりますが、下級武士の家柄ゆえ、藩校・明倫館で学ぶことも叶わず、要職に就ける望みは薄いものでした。

しかし幼いころから励んでいた武芸の腕前が注目され、同じ藩士の杉山松助などからは特に引き立てられるように。

杉山は吉田松陰が主宰する松下村塾の一員で、あるとき松陰が塾生を数名京都へ派遣するとなったとき、塾生ではない有朋を推薦します。

こうして京都へ向かうことになった有朋は、塾生たちとも交流を深め、そのなかのひとり、久坂玄瑞くさかげんずいの勧めで松下村塾に入塾することになりました。

後に松陰は倒幕の動きもあって投獄され、刑死しているため、有朋が学んだ期間はわずか半年ほどでしたが、この後彼は生涯、松陰を師と仰ぎ続けたといいます。

こうした流れで藩士としての影響力を強めていった有朋は、1863年、京都で知り合った高杉晋作と意気投合し、奇兵隊の創設に伴い、副官の地位にあたる軍監を務めることに。

海外列強との不平等条約に屈する幕府に疑念を抱き、倒幕の志のもと

・海外列強との下関戦争

・幕府による長州征討

・戊辰戦争

に身を投じ、明治維新の立役者の一人に名を連ねます。

こうして新政府体制になると、1870年からは兵部省次官に任命され、以降、西郷隆盛の弟・西郷従道と協力し、兵部省にて陸軍・海軍の棲み分けをする改革を行いました。

このとき有朋は陸軍の長官職である陸軍大輔に任じられ、その後陸軍のトップとして君臨していくことになるのです。

陸軍時代

陸軍が成立してからすぐの1873年のこと、有朋には早くも辞任の危機が訪れます。

政府に出入りしていた山城屋和助という商人の借金問題に巻き込まれることになったのです。

和助は政府の各庁から多大な借金をして、それを元手に商売をしていましたが、あるとき輸出先との交渉と称して、海外で遊び目的でそのお金を使っていることが発覚。

和助は有朋の奇兵隊時代の部下だったこともあり、政府から借金をする際に有朋を通していたのではないかと疑われるのです。

真意は定かではありませんが、これを理由に有朋は陸軍大輔を辞任します。

しかし西郷従道ら幹部が、陸軍には有朋が必要だとし、彼は改めて長官職である陸軍卿に任命されることになりました。

1877年には薩摩藩と政府による西南戦争が勃発。

この戦いで有朋は戊辰戦争で共に戦った西郷隆盛と対峙せざるを得ない状況になり、

この挙兵はあなたの意志ではないとわかっている。あなたの決断でこれ以上の犠牲者を増やさないことはできるはずだ

と、自決を求める書状を送ったといいます。

しかし西郷はそれに応じることはなく、結局は政府軍の総攻撃に追い込まれる形で自決の道を辿ることになりました。

西郷の遺体を前にした有朋は勝利したにも関わらず、彼の死を悼み、涙を流したといいます。

そしてこの後、戦争の影響で財政難に立たされた陸軍内では、待遇に不満を覚えた兵士による暴動(竹橋事件)が発生。

恩賞選定に関わっていた有朋は辞任に追い込まれます。

・元部下の借金問題

・元同志との戦争

・暴動を理由に辞任

…という感じで、有朋の陸軍時代は波乱の連続でした。

明治維新に続き、尾を引いて混乱が続いているという印象ですね。

政治家として

こうして陸軍卿を辞任した有朋は、大久保利通の推薦で朝廷の最高機関・参事になっていたこともあり、政治に深く関わっていくことになります。

まず内務大臣として都道府県制、市町村制を公布し、地方の自治を促しました。

明治になるまでの藩制は、幕府から派遣された大名によって管理されるものでした。

対して有朋は政府ではなく、その土地の人たち自身で管理していく体制を確立しようとしたのですね。

この地方自治の制度はドイツのものを参考にしたといい、1888年には有朋がヨーロッパ視察にも出向いています。

ドイツでは当時の国王ヴィルヘルム2世や、首相のビスマルクとも面会したとのこと。

しかし有朋は日本語しか話せないため、あまり有意義なやり取りはできなかったと、愚痴をもらしていたなんて笑い話もあります…。

また内閣総理大臣にも1889年、1898年と二度に渡って就任。

どちらも任期は2年未満と短いですが、日本初の帝国議会に参加するなど、重責を果たしています。

そんななかでも、いかにも有朋らしい政策だなと感じるものは、1899年の文官任用令の改正です。

政府の要職に就くにあたって試験制度を設け、真に能力のある者でないと政務に携われない体制を作ろうとしています。

有朋は政府の人選ではない有志が政治に参加する政党政治も毛嫌いしていました。

これらの行動にはきっと

「どこの馬の骨かもわからないヤツを政治に参加させられるか」

みたいな想いがあったのでしょうね。

その後は首相の座こそ1900年、62歳のころに退いていますが、辞任後も天皇直属の議員である枢密院すうみついん議員として、有朋は始終、首相の人選などに関与していました。

生涯軍人でもあり続けた

西南戦争後の暴動をきっかけに、陸軍卿のポストを退いた有朋。

しかし実は政府の要職を務めるかたわら、陸軍に指示を出す天皇直属の組織・参謀本部には在籍していました。

また特に親しくしていた大山いわおが陸軍卿に就いたこともあり、結局陸軍の支配権はほとんど有朋が握っているような状況になっていたのです。

内閣総理大臣になった際も、明治天皇の特例で兼務が認められ、1890年には陸軍大将の称号も与えられています。

いろいろあったものの、やはり陸軍には有朋が必要だったということですかね。

1894年の日清戦争では、第一軍司令官として戦地にも赴き、1904年の日露戦争では参謀総長として陸軍全軍を指揮。

やはり、軍人と政治家をここまで両立させた人はほかにはいないのではないでしょうか。

 

きょうのまとめ

山県有朋はいろいろと事件に巻き込まれた側面もあるため、誤解されている部分が多く、当時はあまり人気のない首相でした。

しかしその政治手腕は、功績から見てもかなりのものだとわかります。

現代に続く日本の基礎を作った一員として、しっかり心に留めておきたいですね。

最後に今回のまとめです。

① 山県有朋は下級武士ながら武芸に秀でていたことを理由に取り立てられ、明治維新の立役者となるほどの出世を実現した。

② 兵部省に陸軍・海軍を成立させ、陸軍の基礎を作った。しかし在任時は戦友との対峙、元部下の借金問題など、波乱の連続だった。

③ 内閣総理大臣など要職を務めるかたわら、軍人として日清・日露戦争にも参加。生涯政治と軍事のトップであり続けた。

ちなみに有朋には先見の明があり、当時発展を遂げつつあったアメリカと、いずれ敵対することになることも見事に予期していたといいます。

軍事と政治の両方を見てきたからこそ、各国の動向もよく見えていたのでしょうね。

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