西園寺公望とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

明治時代、国会の創成期において、日本の政治の近代化に大きく貢献した政治家

西園寺公望さいおんじきんもち

内閣総理大臣を二度経験し、辞任後は天皇の側近にあたる元老として、昭和までの非常に長い期間、政治に携わり続けた人物です。

さらに教育方面にも関わりが深く、立命館大学の創設に携わったことでも知られています。

近代の政治の礎を築いた西園寺公望とは、いったいどんな人だったのか。

今回はその生涯を辿ってみましょう。

 

西園寺公望はどんな人?

プロフィール
西園寺公望

大勲位菊花章頸飾佩用した西園寺(1928年)
出典:Wikipedia

  • 出身地:山城国京都(現・京都府京都市)
  • 生年月日:1849年12月7日
  • 死亡年月日:1940年11月24日(享年92歳)
  • 鎌倉時代より続く清華家の血を引き、皇室と関わりの深かった政治家。内閣総理大臣を二度務め、辞任後も元老として生涯政治に関わり続けた。

 

西園寺公望 年表

年表

西暦(年齢)

1849年(1歳)朝廷にて右大臣を務めた公家・徳大寺公純だいとくじきんいとの次男として、山城国京都(現・京都府京都市)にて誕生する。

1851年(2歳)父と同じく朝廷の官職を務めた西園寺師季さいおんじもろすえの養子となる。同年、師季が没したため家督を相続。

1860年(11歳)御所に出仕し、祐宮さちのみや親王(のちの明治天皇)の側近として仕える。

1868年(19歳)戊辰戦争にて、総督として各戦場の指揮を執る。戦後は新潟府知事に就任。

1870年(21歳)東京に移り、政府の洋学機関・開成学校に通う。同年9月に京都にて私塾・立命館を創立。

1871年(22歳)新政府の幹部・大村益次郎おおむらますじろうの推薦でフランス留学に向かう。

1871~1880年(22~31歳)パリのソルボンヌ大学で学び、同大学では初の日本人学士となる。フランス公使館にも務めた。

1880年(31歳)フランスから帰国し、松田正久が主宰する『東洋自由新聞』の社長になる。

1881年(32歳)明治法律学校に行政法の教授として招かれる。同年、『東洋自由新聞』が自由民権運動を後押しするものと判断されたため、明治天皇から内勅が下り、社長を辞任。

1882年(33歳)伊藤博文が国会開設に向けて設置した参事院の議官補となり、ヨーロッパ視察に随行。翌年帰国し、参事院議官となる。

1885年(36歳)オーストリア=ハンガリー帝国公使となり、ウィーンに滞在。法学者ローレンツ・フォン・シュタインから憲法思想を学ぶ。

1888年(39歳)ドイツ帝国とベルギーの公使、ローマ教皇庁の特命全権公使に任命され、ローマ、ベルリンを訪れる。

1892年(43歳)民法商法施取調委員長、貴族院副議長、法典調査会副総裁を兼任し、民法や商法施行に伴う審査に携わる。

1894~1896(45~47歳)第二次伊藤内閣にて、文部大臣として初入閣。陸奥宗光むつむねみつ外相が辞任したのち、外務大臣も兼任する。

1898年(49歳)第三次伊藤内閣にて文部大臣に就任。

1900年(51歳)第四次伊藤内閣にて療養中の伊藤博文に代わり、内閣総理大臣臨時代理を務める。同時に枢密院すうみついん議長にも就任。

1901年(52歳)日本女子大学校の創設に際し、設立発起人、創立委員となり後援する。

1903年(54歳)伊藤博文が政友会総裁を辞任したため、政友界総裁となる。

1906~1908年(57~59歳)第一次西園寺内閣が成立し、内閣総理大臣を務める。

1911年(62歳)第二次西園寺内閣が成立。翌年、陸軍大臣・上原勇作との衝突が原因となり総辞職する。

1916年(67歳)山県有朋の推薦により、元老(天皇の補佐)のひとりに任命される。

1919年(70歳)第一次世界大戦後のパリ講和会議に、首席全権として派遣される。

1940年(92歳)腎盂炎じんうえんを患ったことで衰弱し、11月24日に死没。

 

西園寺公望の生涯

1849年12月7日、西園寺公望は山城国京都(現・京都府京都市)にて、父・大徳寺公純だいとくじきんいとの次男として生まれます。

大徳寺家は鎌倉時代に成立した公家のなかでも清華家せいがけと呼ばれ、家格としては現代でいう総理大臣に就けるぐらいの位置付け。

父の公純にしても朝廷の官職で最高権力である右大臣を務めた人でした。

父親と苗字が違っているのは、2歳のころに同じ清華家で兄弟筋の家系にあたる西園寺家の養子となっているためです。

ただ養父の西園寺師季さいおんじもろすえは養子になって間もなく死没しているため、養育に関してはほとんどを実父の公純が世話をしています。

ちなみにこのとき西園寺は2歳にして西園寺家の当主にも…。

生まれながらに将来を約束されたエリートというわけですね。

少年期から朝廷や新政府にて活躍

西園寺は宮内省の教育機関である学習院で学び、11歳のころには御所に出仕。

のちに明治天皇となる祐宮さちのみや親王の側近を務めます。

11歳で皇太子の側近をしていたって、いったいどんな子どもだったんでしょう…公家の文化になじみのない現代じゃ想像もできない感覚ですよね。

1868年に明治政府が成立した際には、「総裁」「議定」「参与」の三職が設置され、西園寺はこのうち、事務にあたる参与に就任しています。

また同時期に勃発した戊辰戦争では各地に総督として出向き、軍政を担いました。

このころも20歳になるかどうかという歳だから末恐ろしい…。

西園寺は幕末の世において、若年ながら着実に頭角を現しつつあったのです。

教育者としての西園寺公望

明治維新後の西園寺はまず、新潟府知事に就任しますが、フランスへの留学を考えていたこともあり、これを1年ほどで辞職。

その後東京へ移り住み、政府の洋学機関・開成学校にてフランス語や法制を学ぶようになります。

また同年の1869年には、故郷の京都へ戻り私塾・立命館を創設。

これが現在の立命館大学の前身となっています。

当時、公家の出身者が主宰する私塾は、その家柄の人間や家臣の教育を行うところでしたが、立命館はそういった私塾とは一線を画し、地方から若い塾生が続々と集まったことから話題を集めました。

しかしそのことが災いして、なんと1年を待たずして閉鎖を余儀なくされます。

あまりにも多くの人が集まり過ぎているため、革命思想を植え付ける組織と勘違いした京都府庁から閉鎖の命令が下されたのです。

ちなみに立命館大学は、西園寺の側近だった中川小十郎がその意志を引き継ぎ、この30年後の1900年に創設した学校。

西園寺は創設者でこそないものの、自身のコネクションを活かした多額の支援や書物の寄付を行っており、今でも同大学で「学祖」と称えられています。

このほか、フランス留学の直後には明治大学の前身である明治法律学校に務めていたり、1901年に日本女子大学校が創設された際には後援者になっていたりと、何かと教育には関りが深い人なんですよ。

西園寺が当時あまり進んでいなかった女性の教育を推進したのも、次項で紹介するフランス留学にて、西洋の文化を学んだゆえです。

フランス留学時代

西園寺が開成学校に通い始めた際、フランス語だけでなく法制を学ぶようにと彼に勧めたのは、新政府軍で軍師を務めた大村益次郎おおむらますじろうでした。

大村はそもそも外国語に精通していたことから政府に重宝されるようになった人物です。

せっかく異国文化を学ぶなら法律を取り込むべきだと、彼もまたアンテナを立てていたのでしょう。

そして1871年、22歳のころに西園寺は政府の公費留学生となり、パリのソルボンヌ大学に留学できることになります。

このとき政府に西園寺を推薦したのもまた、大村益次郎。

大村は西園寺の才能を見込んでいろいろ世話を焼いていたわけですね。

こうしてソルボンヌ大学で学ぶこととなった西園寺は、普仏戦争直後、プロイセンとの和平を巡って対立する政府を目の当たりにし、現地の政治の在り方を肌で学んでいきました。

約10年の留学期間を通して、同大学では初の日本人学士となり、同時にフランス公使館の仕事もこなす奮闘ぶり。

またこの間に知り合った親友・クレマンソーとの交友は生涯に渡って続き、彼がのちにフランスの首相となっていたため、1919年のパリ講和会議で再会を果たすという運命的な一幕も。

留学仲間だった中江兆民や松田正久とも仲を深め、帰国後には3人で『東洋自由新聞』を創設しています。

こうしたフランスの政治的背景や人脈を巡って、西園寺は政治家としての思想を形作っていったのです。

政界への進出

1880年にフランスから帰国した西園寺は、前述の『東洋自由新聞』の社長を務めますが、明治天皇から直々に内勅が下り、約1年でこれを辞することになります。

理由は、新聞の内容が当時盛んになっていた自由民権運動を促すものと捉えられたため。

皇族に近い立場の西園寺が既存の政府と相反する運動を助長することが問題視されたのです。

この辞任と同年、西園寺は初代首相・伊藤博文が国会開設に向けて設置した参事院の議官補に任命され、翌年には伊藤らと共にヨーロッパ視察にも出向きます。

これが1882年のこと、ここから1891年までに西園寺は

・オーストリア=ハンガリー帝国公使

・ドイツ帝国公使

・ベルギー公使

・ローマ教皇庁の特命全権公使

など、ヨーロッパ諸国の外交を務め、伊藤博文の右腕としてその地位を高めていくことに。

やはり10年のフランス留学で身につけた外交力は並外れており、政界における西園寺のなによりの武器となったわけですね。

このヨーロッパ滞在期間において西園寺は現地の憲法思想についても学び、帰国後は民法商法施行取調委員長に就任。

このあと1894年からの第二次伊藤内閣、1989年からの第三次伊藤内閣では、文部大臣外務大臣など、国会の要職を任される身になっていきます。

二度の内閣総理大臣就任

1900年に発足した第四次伊藤内閣において、首相の伊藤博文が病気療養中だったため、西園寺が内閣総理大臣臨時代理を務めることに。

また1903年には、伊藤が内閣を組織するために創設した政党・政友会の総裁を辞任することになり、西園寺はこの総裁も譲り受けることになりました。

このようにして、徐々に国のトップの座に座ることとなった西園寺は

・1906~8年…第一次西園寺内閣

・1911年~12年…第二次西園寺内閣

と、二度の内閣総理大臣を経験します。

当時の日本の風潮は海外列強に対抗しようとするものでしたが、西洋文化を学んだ西園寺の意向は海外に対抗するのではなく、協調すべきだとするもの。

軍備の拡大に反対するなどの姿勢に、その意志が表れています。

首相として経験した主な出来事は

・日露戦争の戦後処理

・明治天皇の崩御

・大正天皇の践祚

などなど。

特に日露戦争後、日本が列強の仲間入りを果たしたのは、西園寺の外交によるところが大きいです。

桂太郎との対立

西園寺内閣といえば、これもまた外せないのが、前任の首相・桂太郎との対立です。

このころは西園寺と桂がそれぞれ、交互に首相を務める時期が続いたため桂園時代けいえんじだいとも呼ばれています。

特に第二次西園寺内閣の総辞職に関しては、桂の企てによるところもあってその確執は大きいです。

このときの辞職は、陸軍大臣・上原勇作の軍備の拡大の申し出を西園寺が受け入れなかったことが原因。

反発した上原が陸軍大臣を辞任し、内閣がその後継を決められなかったため、不信任案が可決され、総辞職が決定したのです。

どうしてこれが桂と関係しているかというと、陸軍は主に長州閥の影響下にあったため、長州閥の桂が自身に政権を回すために利用したとされているため。

この一件は国民の反感を買い、翌年すぐに桂は辞職に追い込まれています。

元老としての西園寺公望

第二次西園寺内閣の総辞職以来、西園寺は天皇の側近として首相の選定などを担当する元老の立場で、晩年まで政治に携わり続けます。

ただ首相の選定以外に関しては、基本的には消極的な態度を見せていました。

第一次世界大戦後のパリ講和会議に派遣されたりもしましたが、このときすでに70歳を迎えていた西園寺はフランス語をすっかり忘れていたため、ほとんど発言はしていないとのこと。

また西園寺の考えには、

「天皇が直接政治に関与しすぎると権威を低下させてしまいかねない」

というものがあり、周囲の元老が次々に没していくなかでも、元老の人員拡大には一貫して反対していました。

こうして西園寺は事実上最後の元老となり、以降、首相の選定は天皇直属の元老ではなく、国会議員の協議により行われるようになっていったのです。

 

きょうのまとめ

フランス留学にて西洋の思想を学び、日本の教育、政治の分野に反映させていった西園寺公望。

自分の代で元老の制度を終わらせようとしたその姿勢も、近代化を後押しする一要素といえますね。

圧倒的な長さで政治に関わっているだけあり、現代に影響している部分も非常に多い人物でした。

最後に今回のまとめをしておきましょう。

① 由緒正しい公家の家系に生まれた西園寺公望は、幼少から皇太子の側近に仕えるなど、エリートコースを歩んできた人物だった。

② 西園寺主宰の私塾・立命館の意志は、側近の中川小十郎に引き継がれ、立命館大学の創設につながっている。また日本女子大学の創設も後援するなど、教育業界には関りが深い。

③ 伊藤博文のもとでヨーロッパ諸国の外交を行ったことをきっかけに伊藤の座を譲り受け、二度の内閣総理大臣を務めた。

④ 天皇が政治に関わり過ぎるのをよしとしなかったため、元老の人員拡大をしようとせず、事実上最後の元老となった。

西園寺の経緯を辿るうえでやはり外せないのは、フランス留学やヨーロッパ諸国との外交など、海外での経験です。

彼のように未知の体験をたくさんすることが、鋭い感性を磨いていくためには必要なのでしょうね。

 
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