石田三成が使用した兜・甲冑・刀

 

関が原の戦いで敗北した石田三成

今回は彼がどのような兜や刀や甲冑を使っていたのか、ご紹介します。

 

石田三成が使用した兜・乱髪天衝脇立兜

岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原の

関ヶ原町歴史民俗資料館には、石田三成が使用した兜

乱髪天衝脇立兜』(らんぱつてんつきわきだてかぶと)の複製が展示されています。

乱髪天衝脇立兜ですが、別名は総髪兜と呼ばれた変わり兜の一種です。

黒い乱髪と長い日本の脇立てが特徴で、

前方の鉢金以外は、髪で完全に覆われているため、地毛のようにも見えます。

本物はどこにあるかというと、残念ながら現存していません

また関ヶ原の合戦で、石田三成が本当にこの兜を使用したかは記録には残っていません。

 

石田三成が使用した甲冑・紅糸素掛威伊予札二枚胴具足

紀州藩砲術指南役であった宇治田家には、

石田三成が着ていたとされる
紅糸素掛威伊予札二枚胴具足』(くれないいとすがけおどしいよざねにまいどうぐそく)が伝わっています。

これは三成が着ていたとされる甲冑を、

和歌山に入封した浅野幸長から宇治田家初代が戦利品として拝領されたと言われているものです。

この兜ですが、鉢は阿古陀形を造り、しろこは革板札五段を紺糸で素掛威にし、

両脇に角元を一本ずつ取り付けています。

正面には金胴の円形板で日輪を表した前立を押しています。

 

石田三成が使用した刀・石田正宗

この刀は鎌倉時代末期(14世紀)に正宗が作刀した日本刀の一振りです。

刃長は68.8cmあり、現在は重要文化財として東京国立博物館に所蔵されています。

号の『石田』は、石田三成が所持していたことに由来します。

一説にはこの刀を宇喜多秀家が400貫で買い求め、石田三成に送ったと言われています。

そして秀吉の死後、秀吉恩顧の武断派の武将達が三成を襲撃、

伏見城にいた家康に仲裁される事件が発生しました。

この時、家康の命令により三成を護衛したのが、結城秀康です。

三成はその返礼として石田正宗を秀康に贈りました。

結城秀康死後、石田正宗は子孫の津山松平家に伝わり、現代まで残されています。

 

石田三成が最後まで所持していた脇差・石田貞宗

この刀は鎌倉事態末期(14世紀)に貞宗が作刀した日本刀の一振りです。

刃長は31.2cmあり、現在は重要文化財として、東京国立博物館に所蔵されています。

号の『石田』は石田三成が所持していたことに由来します。

関ヶ原の戦いの後、石田三成は逃亡するも近江の伊吹山山中で田中吉政らに捕縛されます。

その後、小西行長や安国寺恵瓊らとともに処刑されますが、

この脇差は石田三成が形見として田中吉政に与えたとされています。

すなわち、この脇差は石田三成が最後まで持っていた物ということになります。

 










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