室町時代の官僚で守護職にあった名門細川家の1人、
細川勝元。
彼はあまりにも有名な「応仁の乱」に関わった重要人物です。
そんな細川勝元とはどんな人物だったのでしょうか。
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細川勝元はどんな人?
- 出身地;摂津(現在の大阪府)
- 生年月日;1430年
- 死亡年月日;1473年5月11日(享年44歳)
- 応仁の乱での東軍大将で山名宗全と敵対する
細川勝元 年表
西暦(年齢)
1430年(1歳)摂津に生まれる。(幼名、聡明丸)
1442年(13歳)家督を相続する。
1445年(16歳)官僚に就任する。
1449年(20歳)官僚を辞任する。
1452年(23歳)2度目の官僚就任。
1464年(35歳)2度目の官僚辞任。
1467年(38歳)応仁の乱が起きる。
1468年(39歳)3度目の官僚就任。
1472年(43歳)西軍の山名宗全との和平交渉が失敗する。
1473年(44歳)応仁の乱の中病死する。
細川京兆家の子孫として栄華を極める
細川勝元の家祖は細川義孝という人でした。
清和源氏の子孫です。
細川京兆家の祖と言われているのは、細川頼春です。
勝元はその血筋を引き継いでいます。
京兆家は代々右京大夫に任じられる名門でした。
その名門出の勝元は、室町幕府の官僚としてトップクラスに君臨していたのです。
細川勝元にまつわるエピソードや伝説
細川勝元といえば応仁の乱というイメージです。
この乱は、様々な要因があります。
それらを含めて、細川勝元に関係することを見てみましょう。
応仁の乱
そもそもこの乱は、室町幕府の将軍の跡目争いが関与しています。
8代将軍足利義政の跡を、弟の義視が継ぐか、嫡男の義尚にするかで揉めます。
その上細川勝元と同じ守護職にあった畠山氏や斯波氏でもお家騒動が持ち上がりました。
細川勝元は足利義視を応援すると共に、この守護職のお家騒動にまで巻き込まれ、
政界でトップを争っていた山名宗全と敵対するようになります。
細川勝元は東軍の大将に、山名宗全は西軍の大将として応仁の乱が始まったのです。
しかしこの戦いの途中、2人の大将は相次いで亡くなります。
それでも争いは続き、やがて戦国の世へと引き継がれるきっかけとなったのでした。
細川勝元の子孫
室町幕府でトップだった細川勝元の子孫はあまりパッとしませんでした。
嫡男の政元は父亡き跡を注ぎましたが、女性に興味を持たない人でした。
当然結婚もせず子どもももうけなかったため、親戚の九条政基の末子の聡明丸を養子としたのです。
悲しいかな、ここで細川勝元の直系は途絶えたのです。
名刀 乱藤四郎
細川勝元は乱藤四郎という短刀を所持していました。
藤四郎の刀は、まっすぐなものが多い中、この藤四郎だけは刃が乱れていたのでそう呼ばれるようになりました。
この刀は足利将軍家に献上され、その後豊臣秀吉に渡っています。
秀吉は「正宗」、「郷義弘」と並び名三作としてこの「乱藤四郎」を讃えました。
きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。細川勝元についていかがでしたでしょうか。
細川勝元とは?
① 名門である細川吉兆家の出身
② 応仁の乱では東軍の大将として山名宗全と敵対
③ 直系子孫は存在しない
④ 名刀「乱藤四郎」を所有していた
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