北条氏康も使った家紋「三つ鱗」誕生のエピソードとは?

 

鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻は北条政子、というのは非常に有名です。

北条家は代々「執権」を務め、幕府の政治に大きな影響力を持っていました。

鎌倉幕府は1333年に滅亡しますが、戦国時代に関東を支配したのも北条氏。

勘違いされている方も多いようですが、鎌倉幕府の北条家戦国大名の北条家は違う一族です。

とは言っても、まったく関係がないというわけではないようです。

そこで今回は、両家の家紋について見ていくことにします。

 

後北条氏の家紋「三つ鱗」について

北条氏政

北条氏政像(法雲寺所蔵)
出典:Wikipedia

鎌倉幕府の執権を務めた北条氏(以下、執権北条氏)と区別するため、戦国大名の北条家は「後北条氏」と呼ばれることがあります。

もとは執権北条氏の家紋だった

後北条氏は、北条早雲という人物から始まりました。

北条早雲は備中国(現在の岡山県)出身とする説が有力で、元の名を伊勢宗瑞いせそうずいと言います。

早雲の出自について詳しく知りたい方は、下記をご覧ください。

 

早雲は関東で勢力を拡大していきますが、関東において彼らの一族は無名。

すでに関東に存在していた勢力からは「侵略者」とみなされ、支配が円滑に進みませんでした。

そこで関東で抜群のブランド力を持つ執権北条氏にあやかり、「北条」を名乗ることになったということです

(北条姓を名乗り始めたのは早雲からではなく、息子の氏綱(氏康の父)の代からと言われています)

早雲の息子・氏綱が「利用」したのは、名前だけではありません。

執権北条氏の家紋三つ鱗みつうろこまでも使い始めたのです。

 

なお初代の早雲は、伊勢氏の家紋である対い蝶紋むかいちょうもんを使用しています。

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三つ鱗の誕生のエピソード

このように、後北条氏が勝手に使い始めた「三つ鱗」の家紋。

それでは、執権北条氏の家紋が三つ鱗になったきっかけをご紹介しましょう。

 

三つ鱗を家紋にしたのは、北条政子父・時政でした。

時政が江の島(現在の神奈川県藤沢市)にある弁財天の祠で、子孫繁栄の祈願を行った夜のこと。

時政の前に、高貴な身なりをした女性が現れます。

すると「あなたの子孫は日本を支配する」などと言い残し、大蛇になって海に消えたそうです。

そして大蛇は3枚の鱗を残していき、これを時政が家紋にした

と言われています。

 

その後の時政の子孫の活躍は、教科書などに書いてある通りです。

こんな素敵なエピソードを持つ家紋ならば、後北条氏も喜んで一族の家紋にしたのではないでしょうか。

 

きょうのまとめ

今回は後北条氏が使用した家紋「三つ鱗」について、簡単にご紹介しました。

① 後北条氏は執権北条氏にあやかり、名前だけでなく家紋「三つ鱗」まで使用した

② 後北条氏の祖・早雲は伊勢氏の家紋「対い蝶紋」を使用した

③ 大蛇が残した3枚の鱗が「三つ鱗」誕生のきっかけとされる

こちらのサイトでは他にも、北条氏康にまつわる記事をわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってください。

 

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2 件のコメント

  • どちらも三浦一族を壊滅させた後自らも滅ぼされてしまったんですよね。因果応報を感じます。

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