北条時頼 | 引付衆とは?~時頼が変えた裁判制度~

 

鎌倉幕府第5代執権である北条時頼は幕府の中にある部署を作ります。

それが引付衆(ひきつけしゅう)です。

鎌倉時代の裁判制度に変化を与えた時頼

引付衆とはどんな仕事をするところなのでしょう?

引付衆は裁判の為に作られた

鎌倉幕府は土地や年貢などに関する訴えを御家人ができる制度を作りました。

評定衆はその御家人の訴えを話し合って裁きを下す、現在の裁判所のような役割を果たしていたのです。

しかし評定衆は幕府の政治を担う中心的な存在でした。

評定衆だけで裁判と行政を同時に行うのはちょっと無理があります。

そこで時頼は御家人からの訴えを迅速に処理できる仕組みを考えます。

それが引付衆です。

訴えが届いたら引付衆がその訴状を受け取り、話し合い、判決の原案を決めます。

その判決の原案を引付衆から受け取った評定衆が判決についてだけ話し合いをします。

このような仕組みから、評定衆は訴えの対応の多くを引付衆に任せる事ができました。

鎌倉時代の裁判と引付衆

ここでは引付衆がどのような役割を果たしていたか詳しく見てみましょう。

鎌倉時代では訴えを問注所へ届けます。

この問注所は訴えを受け取り幕府へ送る窓口と事務を担いました。

引付衆は問注所から届いた訴えから裁判を行います。

訴えた原告と被告でまず争う内容について書類での意見を交わし、次に引付衆が原告と被告の双方を呼んでの口頭弁論になります。

現在の裁判と違うのは、原告が出した証拠をそのまま採用して決定してしまう事です。

検察や弁護人が独自に証拠を集めたり、意見を言うような事は鎌倉時代ではありませんでした。

そもそも弁護士や検察官に相当する役職はまだありません。

原告でも被告でも異論を言わなければそのまま証拠が採用されてしまいます。

書類や口頭弁論での採用された証拠をまとめて判決の原案を作るまでが引付衆の仕事です。

評定衆は引付衆がまとめた原案から判決を下すのです。

鎌倉時代の裁判は現在とは違い、証拠集めも答弁を戦わせるのも原告と被告の役目でした。

引付衆と評定衆はあくまで両者の言い分を聞いて決定を下すのが役割でした。

引付衆はなぜ土地問題を担当したのか?

引付衆は主に土地に関する争いを担当していました。

殺人など現在の刑事事件に相当する部分は別で、鎌倉幕府では警察に相当する侍所(さむらいどころ)が担当しています。

引付衆が作られたのは、土地に関する訴えが絶えなかったからです。

ではなぜ土地に関する訴えが絶えなかったのでしょうか?

それは当時の御家人の収入が農業で得られる収穫であり、土地が御家人の大事な財産だったためです。

具体的には、

貴族の領地である荘園(しょうえん)と御家人の領地が重なる事があり、

この土地について年貢をどう納めるかなどの訴えがありました。

こうした土地の権利を巡る訴えに迅速に対応するため創設されたのが引付衆でした。

きょうのまとめ

御家人の収入に関わる裁判を担当する引付衆。

しかし次第に幕府の実権を持つ北条氏が引付衆に多く任命されます。

評定衆へ出世する通過点に引付衆が位置付けられていたからです。

本来の役目を失った引付衆は何度か廃止になりましたが、その度に復活し鎌倉幕府の終わりまで続きました。

時頼によって裁判の合理化の為に作られた引付衆でしたが

結局は北条一族の為に利用されてしまったのです。

 

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