北条時頼はどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

20歳で鎌倉幕府の最高権力者である第5代執権となった

北条時頼

歓迎されない執権という逆境から、農民に優しい撫民政策を行い、禅の教えを広めた時頼。

そんな北条時頼を分かりやすく解説します。

 

北条時頼のプロフィール

プロフィール

  • 出身地:鎌倉(現在の神奈川県)
  • 生年月日:安貞元年(1227年)
  • 役職:鎌倉幕府第5代執権

 

北条時頼年表

年表

1227年(0歳)北条時氏の次男として生まれる。幼名は戒寿丸

1230年(3歳)父の時氏が亡くなり祖父の北条泰時が育てるようになる

1237年(11歳)元服して時頼と名乗る

1246年(20歳)鎌倉幕府第5代執権になる

1247年(21歳)「宝治合戦」で御家人の有力者三浦氏を滅ぼす

1253年(27歳)撫民政策を行う

1256年(30歳)執権の座を退き出家する

1263年(37歳)病により最明寺で亡くなる

 

北条時頼の生涯

20歳で鎌倉幕府の執権に

北条時頼は安貞あんてい元年(1227年)に北条時氏の次男として生まれました。

しかし3年後に時氏は病で亡くなり、時氏の父である、第3代執権の北条泰時やすときが時頼の養父となります。

時頼は鎌倉幕府の政治の実権を握る執権の子として育ちます。

そんな時頼に第5代執権の座が巡って来たのは20歳の時です。

寛元4年(1246年)に時頼の兄、第4代執権・北条経時つねときが亡くなるのです。

時頼はこうして第5代執権になります。

執権になったけれど

時頼は執権になったものの、幕府で政治を行う評定衆ひょうていしゅうの御家人からは支持されませんでした。

これは得宗家と呼ばれる、鎌倉幕府を動かす北条家に対する反発からです。

得宗家の得宗とはもともと第2代執権・北条義時の法号で、義時の子孫の家を得宗家と呼びますが、諸説あるようです。

深秘の御沙汰しんぴのごさた」と言う得宗家だけの秘密の会議で、時頼が執権になる事が決められた事もより反発を招きました。

また時頼が病で弱っている経時から執権の座を奪ったとも言われています。

これは経時の息子が、後を継ぐ事無く出家した事から疑われたようです。

時頼はこうして歓迎されない執権として逆境の中のスタートとなりました。

実力で権力を固める

時頼に反発する北条光時が不穏な動きを見せます。

光時は、鎌倉幕府の前征夷大将軍である、藤原頼経を担ぎ出します。

光時は同じ北条家ですが、得宗家ではない名越流北条家です。

得宗家への反発から、反乱を起こそうとしたのです。

しかし時頼は反乱が起きる前に手を打ち、頼経と光時を鎌倉から追い出しました。

この「宮騒動」と言われる政治の争いにより、時頼はようやくその権力を固める事ができました。

宝治元年(1247年)の宝治合戦では、評定衆の有力御家人である三浦氏を滅ぼします。

こうして時頼に歯向かう者は居なくなりました。

禅の信仰

敵となる人物を追放、または滅ぼす事で権力を固めた時頼。

政治と同じく熱意を持っていた事がありました。

それは禅の信仰です。

時頼がいかに熱心に信仰していたかを物語るエピソードがあります。

時頼は、北陸に住む禅の僧侶である道元どうげんを鎌倉に呼びます。

その時に説法をして貰えましたが、時頼の願いである鎌倉への移住は断られました。

道元に断られても、鎌倉で禅を広める意欲は落ちません。

日本に渡来した僧侶の蘭渓道隆らんけいどうりゅうが鎌倉の近くに来たと知ると時頼自ら出向き、新しい寺を建てるので、住職になって欲しいとお願いします。

道隆が時頼の求めに応じると時頼は鎌倉に建長寺を建てます。

こうして建長寺は日本初の禅宗のお寺になりました。

時頼の熱意が実現させたのです。

 

関連記事 >>>> 「北条時頼と道元~すれ違った価値観~」

引退しても権力者

康元元年(1256年)11月

時頼は執権の地位を義理の兄である北条長時へ譲ります。

この年に病に倒れ、執権を続けるのが難しいと判断したのです。

引退した翌日には、禅宗の最明寺で出家し禅宗の僧侶となりましたが、権力はまだありました。

幕府の儀式を仕切るなど、政治へ手を出し続けるのです。

引退から7年後の弘長3年(1263年)、病の悪化により亡くなります。

良い政治もした時頼

時頼が僧侶に化けて、貧しい御家人の精一杯のもてなしに感動する鉢木の逸話があります。

この逸話ができた背景には、時頼による優しい政治がありました。

それは撫民政策ぶみんせいさくと呼ばれる農民を保護する政策です。

このころ、武士が農民から物品を略奪をするなど、農民は酷い扱いを受けていました。

同じ武士である御家人は、物品の略奪や暴力を繰り返す武士を放置していたので時頼が動いたのです。

時頼は御家人が守る法である御成敗式目農民を必要以上に罰しない事を追加し、守れない御家人を含めた武士は、罰せられる決まりになりました。

また御家人の考えを改めさせる為、禅の修行を勧め、精神面から変えようとしました。

時頼がここまでした理由は「農民が逃げて年貢の収入が減ってしまうのを防ぐ」という意味合いもあったようです

 

関連記事 >>>> 「北条時頼の美談「鉢の木」とは?」

 

きょうのまとめ

北条時頼についていかがでしたでしょうか。

簡単にまとめると、

① 20歳で鎌倉幕府第5代執権

② 北条得宗家に対する反発から権力闘争の勃発

③ 禅を熱心に信仰していた

④ 農民に優しい政策を行った

と言えるのではないでしょうか。

また時頼は、引付衆による裁判制度や、御家人が行う京都警護などの期間を短くするなど、御家人にも優しい政策を実行しました。

時頼は動乱の試練を乗り越え、改革を試みた意欲的な政治家だったと言えます。

北条時頼については、他にも様々な記事がありますので

よろしかったらご覧になってみてください。

 

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