北条時頼のお墓がある明月院

 

鎌倉幕府第5代執権である

北条時頼は37歳で亡くなりました。

21歳で鎌倉幕府の最高権力者となった時頼はどんなお墓で眠っているのでしょう。

 

お墓があるのは明月院

時頼が弔われているのは神奈川県鎌倉市にある明月院(めいげついん)です。

ここは禅宗である臨済宗(りんざいしゅう)のお寺です。

鎌倉に禅宗を根付かせた時頼に相応しい場所と言えます。

明月院はただの禅宗のお寺ではありません。

ここは執権を退いた時頼が自ら開いたお寺があった場所でもあるのです。

その名を最明寺(さいめいじ)と言います。

(明月院)

 

最明寺から明月院に続く歴史

時頼の最明寺から現在の明月院に至る歴史を紹介します。

最明寺から始まる(鎌倉時代)

最明寺は康元元年(1256年)に時頼が自ら出家する為に建てたお寺です。

この最明寺に時頼はある人物を招きます。

建長寺を開く時に住職を頼んだ蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)です。

道隆を師として傍に居て貰い時頼は7年間を過ごします。

「最明寺入道」と呼ばれるようになる時頼。

弘長3年(1263年)に時頼が最期を迎えた所もこの最明寺でした。

主を亡くした最明寺は廃寺になります。

時頼の息子である北条時宗は、文永5年(1268年)から文永6年(1269年)の時期に、廃寺だった最明寺を再建したと言われています。

再建する時に名前を禅興寺(ぜんこうじ)と改めます。

禅興寺は第9代執権を務めた北条貞時の供養に、僧侶が92人も集まるほどの高い格式を持つようになります。

禅興寺と明月院(室町時代)

室町時代の康歴2年(1380年)、第2代鎌倉公方の足利氏満(あしかがうじみつ)は上杉憲方(うえすぎのりかた)に命じて禅興寺を整備します。

この時に禅興寺の中に塔頭(たっちゅう)や明月庵(めいげつあん)呼ばれる建物を新たに建てます。

この塔頭と明月庵は禅興寺とは別に建てられ、平安時代の平治の乱で亡くなった首藤俊道(すどうつねとし)を弔う為に作られました。

上杉憲方と首藤俊道は同じ山内上杉氏の一族で、憲方は同じ一族を弔う場所を作ったのです。

応永元年(1394年)に憲方が亡くなります。

亡くなった憲方の法号と言う戒名は「明月院天樹道合(てんじゆだうがふ)」です。

この戒名から明月庵は明月院と名前を変えます。

憲方が建てた塔頭も含めて明月院がこの時に成立したと言われています。

明月院が存続する(明治時代から現在)

こうして禅興寺と明月院2つのお寺が同居しながら時代は過ぎます。

明治元年(1868年~1869年)に禅興寺が廃寺になります。

明治時代に起きた仏教勢力への反発運動である廃仏稀釈(はいぶつきしゃくうんどう)、または以前からの衰退によって廃寺になったと言われています。

残った明月院は時頼のお墓など最明寺だった名残を残しつつ

現在ではアジサイが咲く名所となって存続しています。

 

お寺の中にある時頼のお墓

明月院にある時頼のお墓はどこにあるか?

その目印となるのが明月院の総門をくぐって左にある建物です。

小さな仏堂のような建物が時頼を祭る廟所(びょうじょ)になります。

廟所では時頼の命日とされる11月22日には僧侶達が集まりお経を唱える法事が行われています。

廟所から奥に進んで時頼のお墓があります。

このお墓の近くには昭和の俳人萩原麦草の一句

最明寺 時頼よりの 時雨ふる

を書いた石碑もあり明月院は今も時頼を偲んでいます。

 

きょうのまとめ

明月院は時頼が自分の寺である最明寺から始まり、

時頼の息子である時頼が禅興寺として再建し

上杉憲方が明月院を建てました。

複雑な成り立ちが次の世代や時代に繋げた続けられました。

そんなお寺に今も時頼は眠っているのです。

 

北条時頼の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「北条時頼はどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

2 × four =