伊豆を本拠地としていた在地豪族の北条氏は、
北条時政の時代から光を帯びてきます。
一族を繁栄に導いた時政とはどんな人物だったのでしょうか。
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北条時政はどんな人?
- 出身地:伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)
- 生年月日:1138年
- 死亡年月日:1215年1月6日(享年78歳)
- 流人だった源頼朝の後援者として挙兵に協力し、鎌倉幕府の初代執権となって北条氏の繁栄の土台を築いた。のち将軍源実朝の暗殺と平賀朝雅の将軍擁立を企てて鎌倉を追放された。
北条時政年表
西暦(年齢)
1138年(1歳)伊豆国の在地豪族の子として誕生
1180年(43歳)源頼朝挙兵。山木兼隆宅襲撃に参加。石橋山の戦いにて嫡男・宗時を失う。東国武士団と共に富士川の戦いで平家軍を敗走させる
1182年(45歳)頼朝の愛妾問題がきっかけで一族ごと伊豆へ立ち退く
1185年(48歳)入京し京都守護として幕府の畿内での体制を再構築。「守護・地頭」設置
1189年(52歳)奥州征伐の戦勝祈願のため願成就院を建立
1199年(62歳)源頼朝死去。13人の合議制メンバーとして名を連ねる
1203年(66歳)比企氏を滅ぼし、将軍源頼家を伊豆国修善寺へ追放。源実朝を3代将軍に擁立し、初代執権に就任
1205年(68歳)6月、畠山重忠の乱。閏7月、源実朝の暗殺に失敗し、鎌倉から追放される
1215年(78歳)追放先の伊豆国北条にて死去
北条時政の生涯
北条時政が活躍した時代は、頼朝の挙兵に協力した1180年から鎌倉幕府の初代執権となり、時政自身が失脚する1205年頃までの約25年間です。
謎の前半生から源頼朝と北条政子の結婚容認まで
1138年、時政は伊豆の田方郡北条(現静岡県伊豆の国市)の平時方(諸説あり)の嫡男として誕生。
母親は伊豆権守為房の娘です。
時政の前半生については明確ではありません。
1159年、平治の乱で平清盛に敗れた源義朝の子頼朝は伊豆国への流罪となりました。
流人の頼朝を監視する役目を担ったのが北条時政です。
ところが、時政が京都での務めを果たしている間、娘の政子と流人の頼朝が恋仲となりました。
当初2人の仲を反対していた時政ですが、1177年には結婚を認めています。
頼朝挙兵への協力、しばしの離反
平時忠が伊豆領主となり、在地豪族の北条時政は自分たちへの圧迫に不満を持ち始めます。
そこで1180年8月、源頼朝の平家打倒の挙兵に協力することを決意しました。
伊豆国目代・山木兼隆を討ちますが、その後の石橋山の戦いでは大敗。
嫡男の宗時を失っています。
その後甲斐源氏の武田信義らを引き入れ、10月に駿河国目代橘遠茂・長田入道らに勝利。
富士川の戦いでは平維盛軍を敗走させ、伊東祐親を自害に追い込みました。
その後、北条氏は東国の武士団として知られた和田氏、三浦氏、千葉氏などと比べて目立った活動はありません。
1182年ごろ時政の後妻・牧の方が、頼朝の愛妾である亀の前の存在を正妻の北条政子に告げ口しました。
怒った政子は、牧の方の父・牧宗親に命じて亀の前の邸宅を破壊。
その後に頼朝が宗親を叱責して髷を切り落として辱めた時には、激怒した時政が、北条義時以外の一族を引き連れて伊豆へと戻っています。
記録がないため詳細は明確ではありませんが、のちに時政と頼朝は和解しているようです。
鎌倉幕府成立と北条氏の地盤固めへ
1185年、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡後、頼朝と弟の源義経の関係が悪化しました。
同年、北条時政は源頼朝の代官として1000騎の兵を率いて入京しています。
頼朝は義経の恫喝によって頼朝追討の宣旨を出した法皇に怒り、時政を送り込んで武力を背景に抗議したのです。
時政は法皇に義経を追補する名目で諸国・荘園への
・兵糧米の徴収
を認めさせ、初代京都守護職に就任しています。
現在では、この年を「鎌倉幕府成立」とする説が有力です。
時政は約4ヶ月後に鎌倉に戻るまで幕府による畿内の支配体制を再構築する功績を残しています。
のち1189年からの奥州合戦の戦勝を祈願する目的で伊豆に願成就院を建立しました。
1193年、源頼朝が主宰した狩りの催しで「曾我兄弟の仇討ち」が起き、工藤祐経が殺害されました。
本来は頼朝の暗殺目的だったとも言われ、事件には時政の関与も疑われています。
伊豆の有力者だった工藤祐経が亡くなったことで、時政が伊豆を抑え、さらに1194年には遠江国の守護に就任して両国での地盤を固めています。
1199年には源頼朝が落馬が原因とされる謎の死を遂げましたが、実はそれにも北条氏の関わりが疑われています。
抗争から初代執権へ
頼朝の死後、第2代将軍には頼朝の長男・源頼家が就任。
彼の独断を抑えるために、13人の有力な御家人が合議制で政務を行うことになりました。
時政と息子の義時は共にそのメンバーとなっています。
その後時政は、
・1203年4月 比企能員の変(比企能員をはじめ比企一族が滅亡)
・1204年7月 第2代将軍源頼家が将軍職剥奪ののち伊豆修善寺に幽閉・暗殺
などを背後で操作しながら、有力御家人や将軍までをも排除していったと考えられています。
源頼家を追放した時点で、すぐに頼家の弟の源実朝を将軍に擁立し、12歳という若い将軍の代わりに時政が執権として圧倒的な幕府の実権を握りました。
事件と失脚
時政の失脚は思ったよりも早く到来します。
後妻である牧の方の讒言を受けた時政は、娘婿の平賀朝雅と畠山重保という御家人との口論をきっかけにして
・1205年6月 畠山重忠の乱(畠山重忠をはじめ畠山一族が滅亡)
で、有力御家人であり、人望も厚かった畠山重忠を冤罪により討伐し、息子の重保を謀殺したのです。
これにより幕府内部の人々から反感を買った時政は失脚しました。
それでも時政は牧の方と共に娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立するという政権奪還を目論み、同年閏7月19日に将軍実朝の暗殺を画策しますが、北条政子と義時に阻止されています。
翌日の20日には政子と義時によって時政の執権職は剥奪され、出家した彼と牧の方は鎌倉から追放ののち伊豆国の北条に幽閉となりました。
時政はそこで隠居し、1215年に亡くなるまで当地で余生を過ごしました。
執権という職種が生まれたタイミングはいつ?
将軍を助けて政務を遂行する初代執権になった北条時政ですが、「執権」という職種はいつの時点で誕生したのでしょうか。
1203年9月、北条時政は源実朝を第3代将軍として擁立しました。
将軍は「鎌倉殿」と呼ばれ、時政自身は一般政務と財務を取り扱う「政所」の「別当(長官)」となりました。
それ以降、時政は将軍なしで自分1人の署名による「下知状」を発行して政務を執行するようになり、1203年10月5日に幕府の記録『吾妻鏡』に初めて「執権」と記されています。
北条時政の墓所
北条時政が眠るのは、伊豆・韮山にある高野山真言宗の寺、願成就院です。
1189年に北条時政自身が源頼朝の奥州合戦の戦勝を祈願して建立した寺院です。
動乱によって全焼しましたが、江戸時代になって河内国狭山藩第6代藩主・北条氏貞が復興しました。
国の史跡に指定されている当寺には、鎌倉時代の仏師として名高い運慶の真作仏像、国宝・阿弥陀如来坐像などが安置されています。
時政の墓は境内左手の鐘楼近くに「北条時政公御墓」の石碑とともにあります。
本堂右手奥には堀越公方・茶々丸の墓所も見られます。
<北条時政の墓:願成就院 静岡県伊豆の国市寺家83-1>
きょうのまとめ
北条時政とは、
① 流人だった源頼朝に将来性を見出し、一族上げて後ろ楯となった伊豆の豪族
② 鎌倉幕府内の有力者を排除して源実朝を第3代将軍に据え、幕府内部で権力を振るった初代執権
③ 横暴や過激な行動が原因で実の子である北条政子・義時らに幕府から追放された父親
でした。
頼朝の挙兵を助け、北条氏の繁栄のきっかけを作った北条時政ですが、無実の畠山重忠を討伐し、孫の将軍実朝の暗殺を計画するなど晩節を汚した印象です。
彼は、後妻の牧の方に振り回されてしまったのでしょうか。
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