ハイドンとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

ウィーン古典派音楽を確立した作曲家、

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン

多数の交響曲を書き遺し、「交響曲の父」という異名を持ちます。

さらに長年楽団の長を務め人望も厚い人物でした。

ハイドンとは一体、どの様な人物だったのでしょうか。

今回はその生涯を辿りながら、彼が遺した主な功績を見ていきましょう。

 

ハイドンはどんな人?

プロフィール
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン

トーマス・ハーディによる肖像画
出典:Wikipedia

  • 出身地:オーストリア ローラウ
  • 生年月日:1732年3月31日
  • 死亡年月日:1809年5月31日(享年77歳)
  • 18世紀のウィーン古典派を代表する音楽家。「交響曲の父」

 

ハイドン 年表

年表

西暦(年齢)

1732年(0歳)オーストリア東部、ハンガリー王国領との国境近くにあるローラウ村で誕生。

1740年(8歳)才能が認められ、ウィーンにあるシュテファン大聖堂の聖歌隊に入団する。

1749年(17歳)聖歌隊を解雇され、以後8年間ピアノ教師や臨時のオルガニスト、ヴァイオリニストなどをして生計を立てる。

1755年(25歳)男爵家の室内楽奏者に就任する。後に男爵家の財政難により解雇される。

1761年(31歳)エステルハージ侯爵家の副楽長に就任する。後に楽長に昇進する。

1777年(45歳)オペラ《月の世界》が初演される。

1781年(49歳)《ロシア四重奏曲》を作曲。モーツァルトと親交を持つ。

1785年(53歳)モーツァルトから「ハイドンセット」を献呈される。

1786年(54歳)パリの出版社に依頼され、6つからなる《パリ交響曲集》を作曲する(82~87番)。

1790年(58歳)侯爵の死去に伴いウィーンに移住する。

1791年(59歳)ロンドンの演奏会で大成功を収める。オックスフォード大学より、名誉音楽博士号を授与される。4つの交響曲を作曲(93~96番)。

1792年(60歳)この年から約12年に渡り、ベートーヴェンの師となる。

1793年(61歳)翌年にかけ3つの交響曲を作曲(99~101番)。

1795年(63歳)ロンドンを再訪しオペラコンサートを開催する。3つの交響曲を作曲(102~104番)。

1796年(64歳)依頼を受け、侯爵家の楽長に復帰する。

1797年(65歳)《エルデーディ四重奏曲》を作曲。

1798年(66歳)オラトリオ《天地創造》を作曲。

1801年(69歳)オラトリオ《四季》が初演を迎える。遺言を作成する。

1804年(72歳)楽長職を引退する。

1809年(77歳)2度目の遺言を作成する。5月31日に死去。

 

ハイドンの生涯

ここからは早速、ハイドンの主な功績をもとにその生涯をご紹介していきます。

認められた才能

1732年、ハンガリー王国領との国境近くで誕生したハイドン。

実はハイドン一家は音楽家ではありませんでした。

しかし幼い頃からその才能を覗かせ、されに美声の持ち主でもあったハイドンは、8歳でウィーンにあるシュテファン大聖堂の聖歌隊に入団します。

限られた才能ある持ち主しか入ることのできないこの聖歌隊で、彼は9年の間活動しました。

共同生活を送る中、教会及び皇帝や貴族たちの様々な催しでその歌声を披露し、音楽的な教育はもちろん、

・カトリック教理

・ラテン語

・通常の学校で習う教科

等もこの時期に学んでいます。

音楽に関して言えば、歌だけでなく、

・オルガン

・チェンバロ

・ヴァイオリン

などの楽器の奏法も学び、少年聖歌隊のメンバーは常に専属の教師から彼ら独自の専門教育を受けていたのでした。

貴族のお抱え楽長

少年時代から既に音楽家として申し分ないキャリアをスタートさせていたハイドンですが、そんな彼にも転機が訪れます。

変声期を迎え、少年聖歌隊から退団せざるを得なくなったのです。

17歳を迎えたハイドンはその後、楽器演奏の教師や臨時の演奏者などをして生計を立てつつ人生を模索していました。

この時期の彼の正確な情報は少ないですが、少なくとも彼の作曲活動はこの時期からスタートしています。

そして30代を迎えた頃、少しずつその評判が知られていく中で、彼はある重要な職を手にします。

それは、「エステルハージ家の副楽長」という、ある侯爵家お抱えの楽団での仕事でした。

ハイドンは、既に高齢だった楽長の死後はそのポジションに昇進し、トータルで約30年間この職を務めています。

エステルハージ家は西部ハンガリーの有名な大貴族で、ハイドンは一族の楽団のために、

・作曲

・オーケストラ運営

・オペラや室内楽などの演奏会責任者

として多忙な日々を過ごすことになりました。

しかし一族当主の深い理解も相まって、ハイドン自身の創作環境もこの時期に整ったのでした。

広がる影響力

楽団で忙しく働く傍ら、ハイドンの創作意欲はますます高まります。

彼は生涯で100以上の交響曲を作り、他にも

・弦楽四重奏曲

・ピアノソナタ

など、主に器楽作品の分野で大きな功績を遺しました。

特にこの時期に形成され始めたソナタ形式を確立させたことから、古典派音楽における重要な人物となったのです。

またハイドンは、声楽と器楽両方の才能を掛け合わせた分野である、

・オラトリオ

・ミサ曲

でも有名な作品を遺しました。

有名なものに《天地創造》などがあります。

50代になる頃には彼の評判は海外にまで広がりを見せ、

・《パリ交響曲集》

・《十字架上のキリストの最後の七つの言葉》

など、楽団の外からも作曲依頼をされるようになりました。

さらには2度に渡るロンドンでの演奏会で成功を収め、ハイドンの名声は確固たるものとなったのです。

《天地創造》

 

ハイドンにまつわるエピソード

ここでは、ハイドンの人物像についてもう少し掘り下げるために、彼にまつわるエピソードをご紹介します。

豪華な交友関係

音楽にあまり詳しくない場合、古典派でドイツ語圏の音楽家と言えば、モーツァルトやベートーヴェンといった人物を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。

実際に現代におけるこの2人の知名度は圧倒的なものです。

しかし実は2人共、この記事の主役であるハイドンの後輩として直接親交を持ち、多大な影響を受けた人物たちでした。

モーツァルトはハイドンを深く尊敬し、彼のために「ハイドンセット」と呼ばれる《弦楽四重奏曲》を献呈しています。

ハイドンもまたモーツァルトの才能含め人柄を支持し、モーツァルト亡き後、その息子の音楽教育の支援も行っています。

一方でベートーヴェンにとってのハイドンは、古典派音楽の偉大な師でした。

若き日のベートーヴェンは10年以上彼の元で勉強をしています。

40歳近く年上のハイドンに、ベートーヴェンは《ピアノ・ソナタ第1番~第3番》などを捧げているのです。

持ち去られた頭蓋骨

77歳で死去したハイドン。

その遺体は、アイゼンシュタットの地に葬られました。

しかしこの時、なんと彼の頭部は遺体から切り離され、150年もの間別の場所に持ち去られていました。

才能に溢れ人望も厚かった彼には、熱狂的なファンがいたのです。

首謀者は2人とされていますが、そのうちの一人はハイドンが仕えたエステルハージ家で書記を務めていた人物でした。

丁寧に保存処理され隠されていた頭蓋骨がお墓に戻ることができたのは、1954年のことでした。

 

きょうのまとめ

今回は古典派の音楽家ハイドンについて、主な功績やエピソードと共にその生涯をご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、ハイドンとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると

① 18世紀ウィーンの音楽家。

② 古典派を確立した人物で多数の交響曲を遺した。

③ 後輩に当たるモーツァルトやベートーヴェンに多大な影響を与えた。

多岐にわたるジャンルで古典派の作品を遺したハイドン。

入門として、それぞれのジャンルを少しずつ聴いてみるのも面白いですね。

 
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