19世紀ポーランドの音楽家、テクラ・バダジェフスカ。
ピアノ曲《乙女の祈り》は世界中に知られる代表作ですが、実は彼女自身は多くの謎に包まれています。
テクラ・バダジェフスカとは、一体どのような人物だったのでしょうか。
今回は、主な功績と共に彼女の生涯について探っていきましょう。
<乙女の祈り>
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テクラ・バダジェフスカはどんな人?
- 出身地:ポーランド東中部
- 生年月日:1829年(または1834年)
- 死亡年月日:1861年9月29日(享年 32歳または27歳)
- ポーランドの作曲家、ピアニスト。
テクラ・バダジェフスカ 年表
西暦(年齢)
1829年または1834年(0歳)ポーランドの東中部、マゾフシェ県で誕生する。
1835年(6歳または1歳)家族でワルシャワに移住する。身近な人々からピアノを教わる。何度か引っ越しをする。
1843年(14歳または9歳)最初の作品と思われる《ピアノフォルテのワルツ》を作曲する。その後はサロンなどで演奏活動、作曲活動を行なっていたとされる。
1851年(22歳または17歳)代表的なピアノ曲《乙女の祈り》を作曲。楽譜を自ら本屋などに売り歩く。
1852年(23歳または18歳)公務員の男性と結婚する。
1855年(26歳または21歳)長女マリアを出産。《乙女の祈り》がドイツの各都市で有名になる。
1856年(27歳または22歳)次女ブロニスラヴァを出産。
1857年(28歳または23歳)三女ヤニナを出産。《乙女の祈り》がフランス、イギリス、アメリカなどの大都市で有名になる。
1858年(29歳または24歳)フランスの著名な音楽雑誌に付録として掲載され、《乙女の祈り》がさらに有名になる。
1859年(30歳または25歳)《田舎小屋の思い出》がパリの音楽雑誌に掲載される。
1861年(32歳または27歳)9月29日、ワルシャワにて死去。
テクラ・バダジェフスカの生涯
ここでは、テクラ・バダジェフスカの主な功績と共に生涯を辿っていきます。
謎だらけの女性
早速テクラ・バダジェフスカの生涯についてご紹介していきたいところなのですが、その前に押さえておいていただきたいことがあります。
それは、彼女に関する現存の資料が圧倒的に少なく、またその年代表記などもひどく曖昧であるということです。
理由は主に4つ挙げることができます。
・19世紀のポーランドが置かれていた状況
・早世だったこと
・第一次世界大戦と第二次世界大戦という二度におよぶ戦火による焼失
です。
テクラ・バダジェフスカが生きた19世紀という時代、ポーランドはロシア、ドイツそしてオーストリアの三国によって分割統治がされていました。
従来のポーランドに根付いていた伝統や文化といったポーランドらしさは抑圧され、地図上にも実質的には存在しない国だったのです。
そんな中さらに男性優位な社会構造がまだまだ根強く、どれ程才能ある人物であっても、女性が一般的に大きく取り上げられることはありませんでした。
女性たちの選択肢の狭さも、活躍を阻む原因となっていたことが考えられます。
ちなみに、テクラ・バダジェフスカより少し前に活躍したポーランドの作曲家には、あのフレデリック・ショパンがいます。
彼はパリに渡り、生涯ポーランドの民族性を作品に反映した人物でした。
ほぼ同じ時代であっても、ショパンとはその境遇がかなり異なるテクラ・バダジェフスカ。
さらに追い打ちをかけたのは、早すぎる死とその後二度に渡る戦争の惨禍でした。
彼女は少なくとも、23歳~32歳の間にポーランドの現在の首都、ワルシャワで死去しています。
死因もやはり明確ではありませんが、おそらく病弱だったことと関係があると思われます。
さらにその後の世界大戦で、ワルシャワの町はナチスによって徹底的に焼き尽くされてしまったことから、彼女にまつわる資料はほとんど何も残らなかったのです。
自国での知名度は?
前述した様な複雑な背景を持つテクラ・バダジェフスカですが、やはり彼女を有名にしたのは《乙女の祈り》でしょう。
テクラ・バダジェフスカは、その生涯で30曲前後のピアノ作品を遺したとされています。
そんな中でもこの代表作は、ピアノ初心者がまず弾けるようになりたい曲として、現在でも愛され続けているのです。
この曲が作曲された当時は、貴族だけでなく一般市民たちもピアノに触れる機会が多くなっていました。
金銭的に余裕のある家庭では、子供たちの習い事としてピアノを選択することも多くなっていたのです。
1851年に発表された《乙女の祈り》は、初心者でも難しくなく、けれど弾くのも聴くのも楽しめるという特徴からたちまち大ヒット。
楽譜は何度も版を重ね、世界中に広まっていきました。
日本には大正期に輸入されたと言われています。
しかし意外にも、作曲者であるテクラ・バダジェフスカの知名度は、自国ポーランドではあまり高くありませんでした。
と言うのも、この《乙女の祈り》が世界中に知れ渡ったのは、パリの有名な音楽雑誌の付録として載ったことからでした。
特別な音楽教育を受けずに育ったテクラ・バダジェフスカの素朴で親しみやすい音楽性は、どちらかと言えば現代の音楽に通じる特徴があり、当時のポーランではあまり受け入れられなかったのです。
近年に至るまで、彼女の存在自体がすっかり忘れ去られていたのでした。
テクラ・バダジェフスカにまつわるエピソード
ここではその謎に迫るべく、テクラ・バダジェフスカにまつわる逸話やエピソードを見ていきましょう。
3つの説
代表曲以外、ほぼすべての情報が曖昧なテクラ・バダジェフスカですが、その年齢についてもかなりの幅があるのです。
この記事でご紹介した年表では2つの説を採用して作成しましたが、実はもう一つ、1838年生まれという説も存在します。
その場合、《乙女の祈り》は13歳の時の作品ということになります。
5人の子供
《乙女の祈り》を作曲してから数年後、公務員の男性と結婚したテクラ・バダジェフスカ。
夫の情報も例のごとくほとんど何も分かっていませんが、彼女の音楽に対する理解はある人物だったようです。
テクラ・バダジェフスカは、この夫との間に3人の女児を授かりました。
さらに姉の子供2人を引き取り、計5人の子供を育てていました。
子供たちの中にはその後、音楽院で学んだ人物もいると言われています。
テクラ・バダジェフスカのお墓
テクラ・バダジェフスカの夫は、若くして亡くなった妻を偲び、彼女のためのお墓を建てました。
それは立派なもので、楽譜を持つテクラ・バダジェフスカの立像まで建っています。
このワルシャワにあるボヴォンズキ墓地は、幸いにも戦火を逃れ、彼女のお墓を現在まで留めています。
しかし自国で知名度の高くなかった彼女のお墓は、時と共にすっかり荒れ果てていました。
近年その功績が改めて見直されるようになってようやく、きれいに整備され花が手向けられるようになったのです。
<ボヴォンズキ墓地>
きょうのまとめ
今回はポーランドの女性音楽家、テクラ・バダジェフスカについて、彼女の主な功績を生涯やエピソードと共にご紹介してきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、テクラ・バダジェフスカとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると
① 19世紀ポーランドの作曲家、ピアニスト。
② 代表曲は《乙女の祈り》。
③ 社会的、歴史的な背景により、彼女にまつわる資料はほとんど現存しない。
手がかりとなる資料がほとんどないテクラ・バダジェフスカ。
ちなみに、彼女の名前を検索して出てくる画像やイラストも、本人であるという確証がありません。
代表曲の《乙女の祈り》が、彼女の存在を証明する唯一の痕跡なのです。
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