ブルックナーとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

19世紀のオーストリアで活躍した作曲家、

ヨーゼフ・アントン・ブルックナー

交響曲を多く遺し、その曲の長さでも有名です。

ブルックナーとは一体どんな人物だったのでしょうか。

今回は彼の生涯を辿りながら、その功績やエピソードを見ていきましょう。

 

ブルックナーはどんな人?

プロフィール
アントン・ブルックナー(1894年)

アントン・ブルックナー(1894年)
出典:Wikipedia

  • 出身地:オーストリア アンスフェルデン
  • 生年月日:1824年9月4日
  • 死亡年月日:1896年10月11日(享年72歳)
  • 19世紀オーストリアの作曲家、オルガニスト。

 

ブルックナー 年表

年表

西暦(年齢)

1824年(0歳)オーストリアのアンスフェルデンで誕生。

1827年(3歳)ヴァイオリンを弾き始める。

1834年(10歳)教会でオルガニストとなる。

1835年(11歳)和声法を学び作曲を始める。

1837年(13歳)聖フローリアン修道院の少年聖歌隊に入団。付属学校に入学しオルガンを学ぶ。

1840年(16歳)リンツの師範学校に入学し、和声法とオルガンを学ぶ。教職を志す。

1845年(21歳)聖フローリアンで助教師に就任する。

1848年(24歳)聖フローリアンで臨時オルガニストを務める。

1849年(25歳)《レクイエム ニ短調》の初演。

1850年(26歳)聖フローリアン付属教会でオルガニストに就任する。

1854年(30歳)《ミサ・ソレムニス》の初演。

1855年(31歳)ウィーンで弟子入りする。リンツで一般教員免許の試験に合格する。

1856年(32歳)リンツ大聖堂のオルガニストに就任する。

1862年(38歳)室内楽、管弦楽曲を初めて作曲する。

1864年(40歳)《ミサ曲第1番 ニ短調》の初演。自作の初出版。

1866年(42歳)《交響曲第1番》が完成する。

1868年(44歳)ウィーン宮廷礼拝堂のオルガニスト、ウィーン音楽院で教授に就任する。

1869年(45歳)《交響曲0番 ニ短調》の完成。オルガン演奏旅行でフランスに行く。

1871年(47歳)ロンドン万博博覧会でのオルガン演奏が成功を収める。

1873年(49歳)ワーグナー協会に入会する。

1874年(50歳)《交響曲第3番 ニ短調》をワーグナーに献呈する。

1877年(53歳)《交響曲第3番 二短調》の第2稿が初演されるも大失敗に終わる。

1880年(56歳)ウィーン大学講師に採用されてから、5年目にして給料が支給されるようになる。

1884年(60歳)《弦楽五重奏曲》を出版。《交響曲第7番》の初演が大成功を収める。

1885年(61歳)《交響曲第7番》を出版。翌年の初演で皇帝から勲章を授与される。

1890年(66歳)《交響曲第3番 ニ短調》の第3稿の初演と出版。

1891年(67歳)ウィーン音楽院を退職。ウィーン大学から名誉博士号を贈られる。

1892年(68歳)健康状態が悪化し、宮廷礼拝堂楽団を退職。《交響曲第8番》の第2稿と《交響曲第2番》の第3稿を出版。

1895年(71歳)《交響曲第9番》のフィナーレを作曲開始する。

1896年(72歳)死去。聖フローリアン付属教会のオルガン下に埋葬される。

 

ブルックナーの生涯

ここからは早速、ブルックナーの主な功績を中心にその生涯についてご紹介していきます。

教師兼オルガニストな日々

1824年、オーストリアのアンスフェルデンで誕生したブルックナー。

彼の父は音楽の教師兼教会のオルガン奏者で、母は教会の合唱団に所属していたこともあり、ブルックナーも幼い頃から音楽に触れて育ちました。

13歳の時に父親が死去すると、ブルックナーは聖フローリアン修道院の聖歌隊メンバーとなり、オルガンなどを学びつつ父に習って音楽教員を目指します。

若き日の彼は、教会のオルガン奏者や助教師として働き、転々と渡り歩く日々を送りました。

実はこの時はまだ、作曲家としての本格的な活動はしていなかったのです。

修業時代と作風

ブルックナーが本格的に作曲の勉強を始めたのは、30歳を過ぎた頃でした。

地元を離れウィーンに向かった彼は、作曲家を目指して約8年間の修業時代を送ります。

この修業期間に特に大きな影響を受けた同時代の作曲家に、ワーグナーがいます。

ワーグナーに感銘を受けたブルックナーは、後に面会を果たし、さらには自作《交響曲第3番 ニ短調》を献呈しています。

しかし影響を受けたとは言え、ブルックナーの作風はワーグナーとは大きく異なっていました。

19世紀のヨーロッパで活躍した音楽家たちの中でも、ワーグナーの存在は大きなものでした。

神話や物語などをベースにした楽劇のスタイルは極めて革新的であり、時代を切り開こうとする異端児でもあったのです。

一方のブルックナーは、ワーグナーの作品に見られるような文学的素養を持ち合わせていませんでした。

そのため、ワーグナーの大ファンではあっても、ブルックナーが取り組んだのは文学的背景の必要がない交響曲がほとんどです。

遅咲きの作曲家

30代から作曲家修業を始め、初の交響曲を完成させたときには40代になっていたブルックナー。

これだけでも、彼の作曲家としてのキャリアは遅めのスタートだったことが分かります。

そこからさらに、自身の個性を確立させるのに10年以上を費やし、公の場で大成功を収めることができたのは60歳になってからでした。

ブルックナーは、いくつかのミサ曲などの宗教音楽作品も遺していますが、やはり功績として押さえておきたいのが9つの交響曲についてです。

まず、交響曲第1番~第5番を書き上げるのに12年を費やしていますが、この期間はまだ作風を模索している時期でもありました。

5番が完成してからは、それまでの作品の改訂にさらに時間を費やしていったのです。

そして交響曲第6番~第9番を制作する頃には、作品も作曲に費やす時間もどんどん長くなっていきました。

参考までに、最後の完成作品である第8番については4年以上の歳月をかけています。

そして第9番は、5年以上取り組んだ挙句に未完のまま、ブルックナーは死去してしまったのです。

ちなみに彼は、亡くなる当日も作曲を続けていました。

 

特殊な異端児

ここではブルックナーの人物像をもう少し掘り下げるために、彼にまつわるエピソードをひとつご紹介します。

先程も少し触れた内容ではありますが、ブルックナーの文学的素養の欠如については、少々特殊だったと言えます。

と言うのも、彼が生きたのはベートーヴェンが古典派音楽を完成させた後の19世紀という時代。

保守派か革新派かに対立することはあっても、大抵の音楽家たちは何らかの形で文学的な教養に触れ、音楽に取り入れるか否かを考えていました。

一方でブルックナーはと言うと、革新派のワーグナーを敬愛しつつも彼の作品の基となる物語を知らないために、作品を十分理解することができなかったのです。

弟子が訪れたブルックナーの書斎の本棚には、楽譜の他には本がわずか2冊しかなく、うち1冊は聖書だったと言われています。

そんな彼が作り上げた交響曲は、純粋に「音」を追求してできた、この時代にはやはり異端的作品であったことが見えてきます。

それ故に、ブルックナーへの評価は見方によって天と地ほどの差があるのです。

 

きょうのまとめ

今回はオーストリアの作曲家、ヨーゼフ・アントン・ブルックナーについて、その生涯と主な功績をエピソードと共にご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、ブルックナーとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると

① 19世紀オーストリアの作曲家。

② 作曲家になったのは40代以降と遅咲きで、それまでは音楽教師やオルガニストをしていた。

③ 長大な交響曲の数々で有名。

一曲一曲が長いブルックナーの交響曲。

初めからすべてを聴こうとすると、途中で挫折してしまうかもしれません。

まずは人気作の第4番《ロマンティック》から聴いてみてはどうでしょうか。

 
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【参考文献】
・ブルックナー年表
http://www.eonet.ne.jp/~anton9ban/nenpyou01.htm
・ブルックナーが苦手な人のためのブルックナー講座【補講】-note
https://note.com/kota1986/n/nc220cde72dcd
・ブルックナー、言葉をもたなかった音楽家
http://flac.aki.gs/Music/?p=171

 

 

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