後鳥羽上皇が実は「刀づくり」にものすごく熱心だった、ということを知ってましたか。
そして、彼のその意外な趣味には彼の背負ってきた生い立ちがどうも深い影を落としているのです。
天皇家に生まれても、あなたと同じです。
悩みがあります。
コンプレックスがあります。
今回は、そんな後鳥羽上皇による「刀」にまつわる人生を紹介です。
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宝剣無くなる!
時は元暦2年(1185年)。
壇ノ浦(今の関門海峡あたり)に平家一門最後の夢への望みは断たれました。
「もはやこれまで」と、人々はざんぶざんぶと海の中へ飛び込みます。
その時、まだ満年6つの安徳天皇によりそう二位の尼は三種の神器(「剣・鏡・まが玉」天皇家の権威の正統を示す伝国の3つの宝物)をかかえながら、
「弥陀(阿弥陀様)の浄土へまいりましょう。海の下にも都はあります」
とともに飛び込みます。
戦に勝った源氏の者どもは「神器はどこに」と海を探し回りますが、どうしても最後まで見つからなかったのが「剣」つまり天叢雲剣なのです。
宝剣無き即位
平家一門が安徳天皇をつれて西国に落ち延びたのにあわせて天皇に即位したのが、後鳥羽上皇。
そして、宝剣だけはもどってきません。
こうして元服の儀(大人になったことを示す儀式)にも宝剣のないまま。
こんなことは長い天皇家の歴史の中で一度もありません。
朝廷は仕方がないので天皇家とゆかり深い伊勢神宮から献上された剣を新しい「宝剣」とします。
しかし、成長してゆく後鳥羽上皇はいつしれずあることに没頭してゆくようになるのですね。
それが、刀剣作りです。
後鳥羽上皇、承久の乱に敗れる
一時、殿上(朝廷政界)をぎゅうじっていた平家一門は滅亡しました。
しかし、それに替わって源氏を頭領とする鎌倉幕府が政治の実権をにぎっております。
むかしのような天皇や公家の世の中からは、あいかわらず遠のいてゆくばかりです。
そんな1221年、後鳥羽上皇はとうとう幕府に対して決起!
“必勝”をねがっておりました。
が、あえなく敗れ、朝廷の権威はますます地に落ち、本人も日本海のまっただなかにある隠岐の島に流されてしまいました。
後鳥羽上皇はそこでも没頭していたうちの一つが「刀剣作り」です。
後鳥羽上皇の刀剣づくり
後鳥羽上皇はとても目利きです。
なので、備前や備中(ともに岡山県の一部)、粟田口(京都市東山区にある)などの名産地から腕利きを集めて助手にさせます。
そして、自分でも刀を鍛えます。
後鳥羽上皇は1年経ち、2年経ち、10年経ち、15年経ち、それでも京都に帰れません。
そして、自分はどんどんと年を取ってゆきます。
刀づくりは薄暗い屋内で地道にコツコツと行う作業です。
後鳥羽上皇は何を思ってその刀に一鎚、一鎚を打ったのでしょうね。
菊のご紋
後鳥羽上皇は自作の刀に銘(サインのようなもの)を入れません。
そのかわり、「十六葉の菊紋」を彫り込みました。
そのため、後鳥羽上皇の作った刀剣を「御所焼き」や「菊御作」といいます。
そして、今の天皇家の家紋を知っていますか。
“菊のご紋”です。
この紋は後鳥羽上皇によってできあがったのです。
きょうのまとめ
天叢雲剣は別名草薙の剣ともいわれます。
『古事記神話』の“八岐大蛇退治”を知っていますか。
天界で乱暴狼藉のかぎりをつくして追い出された素戔嗚尊が、降りてきた出雲の国(今の島根県の一部)で怪物八岐大蛇をやっつけるのです。
その時に怪物のしっぽから出てきたのが天叢雲剣。
後には『古事記神話』悲劇の英雄日本武尊が火攻めで追い詰められた時に、この剣で草むらをはらい、向かい火(火がこちらに進んでくるのを弱めるため、こちらから火をつけること)を打ってピンチを脱出した、という伝説もあります。
天皇家の武のシンボル。
そしてずっと天皇家を守り続けました……。
後鳥羽上皇の直系は“乱”の失敗により天皇位を奪われたままになっておりました。
しかし、彼の死後、その位は彼の孫の元へと戻り、以後この血統が常に脈々と受け継がれ続けております。
① 後鳥羽上皇は伝国の宝剣なしに天皇に即位し、しかも、戦乱で宝剣を失った
② 後鳥羽上皇は刀剣作りにとても力を入れた
③ 後鳥羽上皇が自作の刀剣に彫り込んだのが“菊のご紋”
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