後醍醐天皇と足利尊氏が鎌倉幕府を倒そうとした理由はまったくの別物だった?

後醍醐天皇

 

後醍醐天皇は足利尊氏や新田義貞らの協力を得て、鎌倉幕府を倒すことに成功しました。

その後「建武の新政」を行いましたが、足利尊氏が叛(そむ)いたため、わずか3年で建武政権は終わります。

そもそも両者は、始めからうまくいくわけがなかったと言えます。

それは後醍醐天皇と足利尊氏の「倒幕の目的」が、別のところにあったからです。

今回はそれぞれの「目的」と二人を結び付けた理由について、簡単に紹介していきます。

 

それぞれの倒幕の目的とは?

天皇と武士という、立場は大きく異なる二人。

両者は何のために、鎌倉幕府を倒そうと考えたのでしょうか。

後醍醐天皇の不満

「天皇」という地位は、すんなりと受け継がれてきたものではありません。

時に争いにまで発展したケースもありますが、どうにか話し合いで一時的な解決に至ったこともあります。

 

後醍醐天皇よりも少し前、御嵯峨(さが)天皇という天皇がいました。

御嵯峨天皇は息子・後深草天皇に譲位しましたが、その弟である亀山天皇のほうが可愛くなってしまいます。

そこで亀山天皇を皇位に就かせるため、無理矢理、後深草天皇から亀山天皇に譲位させてしまったのです。

 

こうしてお家騒動が勃発した天皇家は、鎌倉幕府に助けを求めることに。

そして「文保(ぶんぽう)の和談」という話し合いが行われ、

  1. 後深草天皇の系統(=持明院統/じみょういんとう)
  2. 亀山天皇の系統(=大覚寺統/だいかくじとう)

が、交互に皇位を継承することになりました。

このルールを「両統迭立(てつりつ)」と言います。

【参考】亀山天皇以降の歴代天皇

  • 第91代:後宇多天皇【大覚寺統】
  • 第92代:伏見天皇【持明院統】
  • 第93代:後伏見天皇【持明院統】
  • 第94代:後二条天皇【大覚寺統】
  • 第95代:花園天皇【持明院統】
  • 第96代:後醍醐天皇【大覚寺統】

 

そういった流れの中で、皇位に就いたのが後醍醐天皇です。

非常にわがままな性格だったことでも知られる後醍醐天皇は、自分の息子に天皇の位を譲ることを望みました。

順番通りに、持明院統には皇位を譲りたくなかったのです。

それを実現するには、自分で政治を行えば良いと考えた後醍醐天皇。

そこで色々口出しをしてくる、邪魔な鎌倉幕府を倒そうと考えたのでした。

足利尊氏の不満

一方、足利尊氏は鎌倉幕府でも有力な御家人(=将軍と主従関係を結んでいた武士)でした。

尊氏はかつて「高」氏だったのですが、これは得宗(※1)・北条高時から一字を賜ったものです。

※1 鎌倉幕府の執権・北条氏の当主である者のこと

さらに妻も赤橋家と呼ばれる、北条一族出身者でした。

足利尊氏は本来、幕府を倒すどころか、幕府のために尽くすべき人だったのです。

 

さて、時間を少しさかのぼりましょう。

鎌倉幕府の成立は、武士たちにとって非常に喜ばしいものでした。

というのもそれ以前は、武士たちに正式な土地の所有権は認められていなかったからです。

 

武士は自分たちで開拓した土地であっても、貴族などに預けるほかありませんでした。

そして土地を預かった(何もしていない)貴族たちは、そこからお金を取っていきます。

武士にとって、こんな状況はおもしろくありませんよね。

そこで自分たちこそが正式な土地の所有権になることを、武士は切望していたのです。

 

そんな中、鎌倉幕府を開いた源頼朝は、この権利を朝廷に認めさせます。

頼朝は日本惣地頭(=地頭の任命権を有する)となり、御家人たちを地頭に任命するという仕組みを取りました。

このように、幕府は自分たちの権益を守ってくれるという前提があったからこそ、

御家人たちはいざという時、幕府のために命懸けで戦ったのでした(御恩と奉公)

 

ですが時代が下るにつれ、幕府側は御家人たちの権益を守れなく(守らなく)なっていきました。

その原因の一つが「蒙古襲来(元寇)」です。

御家人たちは命を懸けて戦いましたが、要は侵略して来た敵を撃退しただけ。

何かを勝ち取ったわけではなかったので、幕府も功績があった者に褒美を与えることはできませんでした。

こうして窮乏していった御家人たちがいる一方、北条氏らは自分たちの利益ばかりを追求していたのです。

 

幕府の有力御家人と言っても、こういった状況に不満を感じないわけがありません。

自分たちの権益を守ってくれるからこそ、鎌倉幕府に従っていたわけですから。

そこで足利尊氏は北条氏を倒し、新たな幕府をつくろうと考えたのです。

この点が、後醍醐天皇の考えとは違いますね。

後醍醐天皇は幕府の存在自体を否定しましたが、足利尊氏は幕府制度を存続させたいと考えていたのです。

二人を結び付けた理由

幕府を倒したい後醍醐天皇

しかし、大切なものを持っていませんでした。

それは武力です。

そこで足利尊氏や新田義貞といった、反幕府勢力を取り込むことにしたのです。

その後のビジョンは違いますが、「鎌倉幕府を倒す」までは同じですものね。

 

そして足利尊氏が後醍醐天皇側についたのは、楠木正成の大奮闘を知ったからとも言われています。

兵の数では圧倒的不利であった楠木正成軍が、幕府軍を相手に好戦したのです。

これにより倒幕は現実味を帯びていき、各地で後醍醐天皇の味方をする者が増えていきました。

 

きょうのまとめ

今回は後醍醐天皇と足利尊氏の、鎌倉幕府を倒す目的の違いについて紹介しました。

① 後醍醐天皇は幕府そのものをなくすつもりだった

② 足利尊氏は新しい幕府をつくろうとした

③ 後醍醐天皇は武力が欲しかった

④ 足利尊氏は楠木正成の奮闘を知って、後醍醐天皇の味方についた

こちらのサイトでは他にも、後醍醐天皇にまつわる記事をわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

 










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