岩手県の平泉にある中尊寺は、藤原清衡が開基した奥州藤原氏三代ゆかりの寺。
中でも金色堂は平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めたものとして知られ、
今でも訪れる多くの人々を魅了しています。
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中尊寺金色堂
北国の平泉で花咲いた文化の象徴・中尊寺の建立について見ていきましょう。
中尊寺とは
岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院です。
本尊は釈迦如来。
奥州藤原氏三代ゆかりの寺として知られています。
金色堂をはじめとする建築、絵画、工芸、彫刻、考古、民俗の各分野にわたる文化遺産を伝えるこの寺は、創建当時の平泉の文化水準の高さを物語ります。
境内は国の特別史跡に指定され、2011年には「平泉―仏国土(浄土)を表わす建築・庭園及び考古学的遺跡群―」を構成する資産の一つとして世界遺産に登録されています。
<関山 中尊寺:岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202>
中尊寺の建立の経緯と目的
寺伝では、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁による中尊寺開山は、850年。
実質的な開基は12世紀のはじめ藤原清衡によります。
彼がその莫大な経済力を背景にこの地に中尊寺を作った目的は、2つあると考えられています。
一つは、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合戦)で亡くなった者たちを敵味方無く追善すること。
もう一つは、寺の造営と造仏、写経などの功徳を積むことによって彼自身の極楽往生を願うことです。
中尊寺金色堂
中尊寺の中でもひときわ注目されるのが、金色堂です。
この堂は、清衡が自分の廟堂(霊を祀る場所)として建立しました。
1897年に、現在の重要文化財に相当する「特別保護建造物」に指定され、
1951年に国宝に指定されました。
また、2011年には中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産となっています。
金色堂の現在
金色堂は、東を正面として建てられています。
間口も奥行きも三間、平面で見ると一辺が5.5メートル四方という小型の仏堂です。
堂は建設当初は屋外に建っていましたが、数十年後には風雨から建物を守る為の施設が作られ、1288年には金色堂をすっぽり包む形の覆堂が建設されました。
現在の金色堂覆堂は1965年に建設された鉄筋コンクリート造りのもので、金色堂はさらにガラスケースに収められ、外気と遮断されて温度・湿度が調整されています。
金色堂の何がすごいか
このお堂は、金色堂というその名前の通り、堂の内外が総金箔貼りです。
扉、壁、軒、縁や床面も全て漆塗りの上に金箔を貼って仕上げられています。
使われる金具は透かし彫り、柱も蒔絵と螺鈿で装飾が施され、金色堂全体が工芸作品なのです。
金色堂に納められていた驚くべきもの
亡くなった者の極楽往生を願う阿弥陀堂建築である金色堂に納められていたのは、仏像だけではありませんでした。
藤原4代のミイラ
堂内にある3つの須弥壇(仏像を安置する檀)の上にはそれぞれ阿弥陀三尊像を中心に11体の仏像が安置されています。
そして、須弥壇の中には4体のミイラが木製金箔貼りの棺の中に安置されていたのでした。
それらは
・奥州藤原氏初代の清衡の身体
・清衡の息子・2代目の基衡の身体
・清衡の孫・3代目の秀衡の身体
・秀衡の遺体の脇に、彼の息子で清衡の曾孫・4代目泰衡の首(頭部のみ)
です。
金色堂は阿弥陀堂建築の仏堂であると共に、墓として作られたものだったのです。
中尊寺蓮
1950年に上記のミイラについての調査が実施されました。
そのときに泰衡の首桶から100個あまりのハスの種子が発見されました。
それらの種子は、1955年にハスの権威であった東大農学部教授・大賀一郎博士に託されましたが発芽せず、その後1995年に大賀の弟子にあたる長島時子教授によって発芽が成功しました。
そして、種子の発見から50年後にあたる2000年に、直径約20cmもの薄紅色の花が咲いたのでした。
800年以上の時を経て咲いたこのハスを中尊寺では「中尊寺蓮」と称し栽培しています。
きょうのまとめ
今回は、藤原清衡が建立した中尊寺金色堂についてご紹介しました。
中尊寺金色堂は
① 藤原清衡が東北の戦乱で亡くなった者の追善と自身の極楽往生を願って建立された
② 総金箔貼りで、美術・工芸・建築の粋を集めた建物自体が平泉文化の象徴
③ 藤原4代の墓を兼ねており、ミイラとなった清衡、基衡、秀衡、泰衡が眠っている
建物自体とその中身がタイムカプセルに納められた宝物のように、当時の文化水準の高さと実に多くの歴史的事実を現代に伝えてくれるのが、中尊寺金色堂なのです。
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