藤原清衡とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

平安時代後期、東北での藤原氏の栄華を築き上げたのはこの人、

藤原清衡ふじわらのきよひら

彼はどんな人物だったのでしょうか。

 

藤原清衡はどんな人?

プロフィール
藤原清衡

出典:Wikipedia

  • 出身地:奥州(現在の東北地方)
  • 生年月日:1056年
  • 死亡年月日:1128年8月10日(享年73歳)
  • 身内の抗争を生き残り、東北地方に勢力を持った奥州藤原氏初代当主。中尊寺金色堂を作った。

 

藤原清衡 年表

年表

西暦(年齢)

1056年(1歳)藤原清衡誕生

1062年(7歳)前九年の役の後、清衡が出羽清原家に引き取られる

1083年(28歳)後三年の役始まる

1086年(31歳)清原一族の抗争で清衡の妻子が殺害される

1087年(32歳)後三年の役が終わる。清衡は安倍氏の土地だった奥六郡を領有する

1095年(40歳)このころ清衡は平泉に居を構えた(1099年説も)

1105年(50歳)清衡、中尊寺の造営に着手

1124年(69歳)中尊寺金色堂上棟

1126年(71歳)中尊寺落慶供養を行う

1128年(73歳)清衡死去

 

藤原清衡の生涯

奥州藤原氏の初代当主・藤原清衡の前半生は戦いの半生、そして後半生は奥州の覇者としての半生でした。

藤原清衡の運命を変える前九年の役と後三年の役

(前九年の役)

清衡は、陸奥国亘理郡わたりぐん(現在の宮城県内)の豪族藤原経清つねきよ

陸奥国奥六郡おくろくぐん(現在の奥州市から盛岡市)を治めた俘囚ふしゅう長・安倍賴時の娘・有加一乃末陪ありかいちのまえの息子でした。

※俘囚:朝廷に属した蝦夷のこと

しかし、父の経清は、1051年から始まった前九年の役で源頼義に敵対した安倍氏に味方し、敗死。

7歳の清衡の母親が敵将だった清原武貞たけさだに嫁ぎ、その養子となった清衡は命を救われました。

武貞の嫡子で清衡とは血のつながらない義兄の真衡、武貞と清衡の母の間に生まれた異父弟の家衡という血縁関係は複雑でした。

 

(後三年の役)

かつての敵同士が家族を作った清原家の抗争は1083年の後三年の役という形になって現れたのです。

勃発した清衡・家衡兄弟真衡との戦いに、当時の陸奥守だった源義家が真衡を支援します。

この大物参入によって清衡と家衡は義家に降伏せざるを得ませんでした。

ところがその後、真衡が急死

そこで義家は清衡と家衡で清原氏の所領を分割させましたが、その取り分に不満を持った家衡が、今度は清衡の妻子などを皆殺しにしたのです。

難を逃れた清衡は義家に助けを求め、日本で初めてと言われる「兵糧攻め」の戦法で家衡を討ち取りました。

朝廷はこの戦いを清原家の「私闘」と見なし、勝者の清衡に恩賞や官位を与えていません。

しかし清原家で勝ち残った彼は、結果的に陸奥と出羽の所領全てを手に入れることができたのです。

その後、清衡は自分の姓を実父の「藤原」に戻し、奥州藤原氏の祖となりました。

 

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藤原清衡の後半生 奥州藤原氏の祖として

清衡は本拠地を江刺郡豊田館えさしぐんとよだのたちに構え、東北での勢力の拡大を図ります。

同時に、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢ぎ物を欠かさず、中央との交流を深めました。

その甲斐あって、朝廷は奥州藤原氏を事実上の奥州支配者として容認

豊かな財力と強大な武力を背景に、清衡の勢力圏内は朝廷での権力争いにも無縁な独立国のような立場を保持しました。

事実、奥州は源平合戦にも巻き込まれていません。

こうして、清衡は奥州藤原氏初代当主として基盤を作り上げました。

洗練された都市・平泉を見届けた清衡

清衡が基盤を磐井郡平泉に遷したのは1094年頃です。

奥州政治文化の中心都市建設が目的でした。

1108年には中尊寺造営を開始し、そこから平泉は発展していきます。

それを支えたのが三陸海岸沿いにある幾つかの金鉱山でした。

奥州は豊かな金の産地だったのです。

さらに、貿易にも熱心だった清衡は、北方貿易を行います。

北方貿易は、京で平清盛らが熱心に行った日宋貿易とは別ルートの別物です。

清衡は、中国の宋、朝鮮半島やオホーツク周辺、アフリカや東南アジアからの珍しい物品・産物の輸入で莫大な利益を得たのです。

これにより、野蛮な蝦夷や俘囚の住む土地だと思われていた平泉は、京に続き高度で華やかな文化の香る日本第2の都市となりました。

その結晶が金銀や螺鈿らでんに彩られた中尊寺金色堂です。

清衡はその落慶を見届け、1128年に73歳の生涯を終えました。

 

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きょうのまとめ

今回は、藤原清衡がどんな人物だったかについてその生涯をたどりました。

藤原清衡とは

① 前九年の役、後三年の役を生き延びた奥州を統べる軍事貴族

② 北方貿易や金鉱山により積極的に財力を蓄え、繁栄した奥州藤原氏の初代当主

③ 豊かな武力と財力を背景に朝廷とも距離を置き、京に続く日本第二の都市を平泉に築いた人物

でした。

彼を初代として続いた奥州藤原氏の繁栄は4代泰衡まで約100年間続くことになります。

 
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku