平安時代の奥州に君臨していた藤原清衡(ふじわらのきよひら)と
その一族の家系図について見てみましょう。
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奥州藤原氏の祖・藤原清衡
藤原清衡を祖とする奥州藤原氏は、前九年の役・後三年の役を経て、
1189年に源頼朝によって藤原泰衡が滅ぼされるまで平泉を中心に東北地方に勢力を持っていた豪族でした。
奥州藤原氏は、藤原北家秀郷流を称していました。
藤原秀郷(ふじわらのひでさと)とは平将門を討伐した人物で、またの名を俵藤太(たわらのとうた)と呼ばれました。
藤原清衡の父・経清(つねきよ)は、その秀郷の子孫と名乗っていたのです。
そうであれば、奥州藤原氏は中央藤原氏と繋がっていると言えますが、その真偽を判断する材料はありません。
その経清は前九年の役で源頼義(みなもとのよりよし)に反旗を翻し、安倍氏に味方しましたが、1062年厨川(くりやがわ)の戦いで敗れました。
7歳の息子・清衡は、処刑されるところを、母である有加一乃末陪(ありかいちのまえ)が敵将である清原武則(きよはらのたけのり)の長男・清原武貞(たけさだ)に嫁ぎ、彼の養子となって助かりました。
清衡の家族と奥州藤原氏4代
【初代】藤原清衡
清衡は実父・藤原経清と養父・清原武貞の二人の父親を持ちました。
清衡の家族構成は以前の敵が混じった複雑なものになり、清衡は義兄や異父弟らと1083年に始まった後三年の役で争います。
その戦いで正室を殺された清衡は、のちに後妻や妾を取り、6男3女を設けました。
【2代目】藤原基衡
奥州藤原氏初代当主・藤原清衡に続いたのは、長男の惟常との後継者争いに勝利した二男の基衡です。
【3代目】藤原秀衡
次に奥州藤原氏第3代当主となったのが、基衡の嫡男・秀衡。
秀衡は仏教文化を誇る大都市・平泉で独自の勢力を持ち、源平の争いにも中立を守って中央から距離を保っていました。
しかし、源平合戦に勝利した源頼朝が秀衡の財力に目をつけてその配下にしようとします。
秀衡はそれを嫌い、頼朝との関係悪化を覚悟で頼朝に追われた源義経を保護しました。
【4代目】藤原泰衡
しかし秀衡の死後、4代目当主・泰衡は、頼朝からの執拗な圧力に屈し、義経を襲撃して自害へ追いやりました。
その後は結局、泰衡も鎌倉軍に破れ、奥州藤原氏の栄華は幕を閉じたのです。
残った子孫は?
残念ながら直系が滅亡した奥州藤原氏の子孫を辿るのは容易ではありません。
【初代】藤原清衡からの子孫
清衡の四男・清綱は「樋爪(ひづめ)」氏の祖先となったと言われています。
また、娘の乙和子姫(おつわこひめ)は源義経の従者となった佐藤継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)の父となる佐藤基治(もとはる)の後妻に入り、その子孫が全国的な「佐藤」という姓の源の一つであると考えられています。
【3代目】藤原秀衡からの子孫
3代目の秀衡の血統では、彼の6人の息子たちは、そのほとんどが早くに戦死したか不明です。
しかし、秀衡の息子忠衡には生存説もあり、彼の三男・助衡が武蔵国で「武蔵国の藤原氏」として「武藤」を名乗ったとも岩手の下閉伊郡野田村で「中野」氏を称したとも言われます。
しかし、いずれも史料に乏しく、詳細はクリアになっていません。
【4代目】藤原泰衡からの子孫
4代目の泰衡は源頼朝に追われて亡くなりました。
しかし、息子・秀安からの系譜が続き、南北朝時代頃までの記録はあります。
泰衡の息子・泰高の子孫については1377年に瀬戸内海の因島に移り住み、「巻幡(まきはた)」という姓を名乗ったという伝承があります。
上記の通り、いずれも現代に明確に繋がる血筋を辿ることが出来ていないのです。
藤原道長と奥州藤原氏の関係
歴史の中における「藤原氏」として気になるのは、あの朝廷の中心で活躍した藤原道長に繋がる藤原氏と奥州藤原氏が関係するのかどうか、ということです。
近年の研究では、『造興福寺記』という五位以上の地位にある藤原氏の名前の記録に藤原清衡の父・経清の名前が確認されています。
道長との血のつながりは不明ですが、中央の藤原氏からもその一族の者であるとは認められていたようです。
さらに、中尊寺金色堂に保存されていた奥州藤原氏の遺体計測により、身体的特徴として彼らは東北人というよりは京都人であったと考えられています。
やはり中央出身の血筋だったようです。
きょうのまとめ
今回は藤原清衡の家系図について見てみました。
藤原清衡の家系は
① 平将門を討伐した藤原秀郷の子孫で、中央の藤原氏の一族と見なされていた
② 清衡を初代当主とした奥州藤原氏の系譜は4代目の泰衡の代に源頼朝によって終了した
③ 現代につながる藤原清衡の明白な直系子孫は不明だが、「佐藤」「武藤」「中野」など現代でも耳慣れた姓が奥州藤原氏に関わる可能性はある
奥州藤原氏の血筋であるという言い伝えのある家系もありますが、残念ながら以前あった記録が散逸するなどして客観的な判断ができません。
記録はなくても東北地方を中心に、おそらく子孫は全国に残っていることでしょう。
あなたの知り合いの佐藤さん、武藤さん、中野さんも、もしかしたら・・・。
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