15世紀のイタリアで活躍した画家、フィリッポ・リッピ。
彼はルネサンス期の第二世代にあたる画家として知られていますが、スキャンダルに満ちた現役の聖職者でもありました。
フィリッポ・リッピとは一体、どんな人物だったのでしょうか。
今回は、その功績やエピソードを辿りながら彼の生涯について見ていきましょう。
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フィリッポ・リッピはどんな人?
- 出身地:イタリア フィレンツェ
- 生年月日:1406年6月23日
- 死亡年月日:1469年10月8日(享年63歳)
- イタリアルネサンス第二世代の画家、聖職者。
フィリッポ・リッピ 年表
西暦(年齢)
1406年(0歳)フィレンツェのオルトラルノ地区、アルディリョーネ通り30番地で、肉屋の息子として誕生。幼くして両親と死別する。
1414年(8歳)伯母のもとで育てられるがその後孤児となり、修道院で育てられる。
1421年(15歳)サンタ・マリア・デル・カルミーネ修道院に入会し、修道士となる。
1430年(24歳)同修道院で修道士兼画家として活動する。
1434年(28歳)パドヴァで制作活動を開始する。
1437年(32歳)この年以降、サン・ロレンツォ聖堂、サンタンブロジオ聖堂など、フィレンツェ内の大聖堂の壁画を多く手がける。
1442年(37歳)フィレンツェ近郊のサンクイリコ修道院で院長に就任。
1452年(46歳)プラート大聖堂の壁画をフラ・アンジェリコに代わり制作する。
1456年(50歳)プラートにあるサンタ・マルゲリータ修道院で、礼拝堂付き司祭に任命される。修道女ルクレツィアと駆け落ちする。
1457年(51歳)ルクレツィアとの間にフィリッピーノ・リッピが誕生。
1461年(55歳)修道女との駆け落ち及び子をもうけたことを告発されるも、コジモ・イル・ヴェッキオのとりなしにより破門を免れる。ルクレツィアと正式に結婚。
1467年(61歳)壁画制作のため、家族でスポレートに移住。
1469年(63歳)10月8日、壁画制作途中に病死。スポレートに埋葬される。
フィリッポ・リッピの生涯
ここからは早速、主な功績を中心にフィリッポ・リッピの生涯をご紹介します。
孤児になって得たもの
1406年、イタリアのフィレンツェで精肉店の息子として誕生したフィリッポ・リッピ。
大家族だった一家は貧しく、さらに幼い頃に両親が死去し、彼は伯母に引き取られた後に孤児となりました。
8歳の頃には既に修道院で育てられていたフィリッポ・リッピですが、少年時代の彼は勉強に関して熱心とは言えませんでした。
その代わり、強い関心を抱き真面目に取り組んでいたのが画家修業でした。
フィリッポ・リッピが引き取られたサンタ・マリア・デル・カルミーネ修道院には、ブランカッチ礼拝堂があり、
その堂内はルネサンス最初期を代表する画家、マザッチョが手掛けたフレスコ画(壁画の技法)で覆われていました。
当時の画家を志す者にとって、マザッチョは憧れや尊敬の的になることが多い天才的な画家でした。
彼の作品があるブランカッチ礼拝堂は、一度は訪れて学びを得るべき場所でした。
幸運にも、芸術に心惹かれたフィリッポ・リッピが最初に影響を受けたのは、まさにこの5歳年上の天才画家だったのです。
人間らしい表現
15歳で正式に修道士となったフィリッポ・リッピは、芸術の才能を開花させ、その後は修道士兼画家として数多くの宗教画を手掛けていくことになります。
天才画家、マザッチョの傑作を間近で見て技法を学んだフィリッポ・リッピの作風は、
・人物に写実性や個性を持たせる
等、中世までの宗教画には無かった新たな表現方法を存分に取り入れていきました。
他にも彼は、人物の構図や顔立ち等に関しても、マザッチョ以外に彫刻家のドナテッロと言った著名な芸術家たちの技を多く取り入れ吸収していきます。
中でもフィリッポ・リッピの作風として特筆すべきは、聖母子像に生身の人間らしさを持ち込んだことです。
彼は絵画作品で多くの聖母子像を描きますが、その表情には観る者に親しみを感じさせるような豊かさがあるのです。
それまでのルネサンス絵画では、遠近法や写実表現など従来の絵画を脱する技法を次々生み出していきました。
しかし聖母やキリスト等、聖書に登場する人物たちは、あくまで聖なる者として描かれたのです。
崇高さと親しみ
同時代の先輩画家、フラ・アンジェリコの作風と、フィリッポ・リッピの代表作《聖母子と二天使》をぜひ比較してみて下さい。
ふたりとも修道士兼画家として活動していた人物でありながら、その作品の雰囲気は随分と違うことにお気づきになられるのではないでしょうか。
フィリッポ・リッピの描く聖母の顔立ちは、高貴でありながらも若い女性を思わせる愛らしさがあり、どこかふっくらとして肌にもほんのりと血色を感じます。
さらに、
・ドラマチックな構図
・様々に読み取れる人物の表情
等と相まって、彼の描く作品は繊細で崇高な宗教画でありながら、どこか明るく世俗的な雰囲気を纏っているのです。
ちなみにフラ・アンジェリコは敬虔な修道士であり、彼の作風はルネサンス的技法を用いながらも、祈りの場にふさわしい神聖さを宿しています。
一見するとフィリッポ・リッピとはとても対照的な人物であるフラ・アンジェリコですが、フィリッポ・リッピは年上である彼の作風にも影響を受けていました。
1452年には、フラ・アンジェリコからプラート大聖堂の壁画制作を引き継ぎ、その後13年かけて主祭壇画を完成させました。
スキャンダラスな聖職者
ここではフィリッポ・リッピの人物像をもう少し掘り下げるために、彼にまつわるエピソードをご紹介します。
フィリッポ・リッピについて語るうえで必ずセットになるのが、その奔放な私生活です。
彼は修道院で暮らし始めた頃には既に悪ガキで、勉強用の教科書はただ汚すためにあったようなものだとか。
一方で美術に関しては熱心に研究していたこともあり、寛大な修道院長の元で修道士としての居場所を確保しつつ、画家としても活動をスタートさせることができたのです。
そんな悪ガキ出身のフィリッポ・リッピは、成長すると大の女性好きに。
画家としての圧倒的才能と実力があり、依頼を多く受けていたにも関わらず、女性にうつつを抜かし過ぎて全然制作が進まないこともありました。
パトロンにはフィレンツェの権力者であったコジモ・デ・メディチもいたのですが、あまりにも仕事が終わらないため、部屋に閉じ込められたこともあります。
そして最大のスキャンダルと言えば、修道女ルクレツィアとの駆け落ちでしょう。
彼は50歳の時に23歳の彼女と恋に落ち、駆け落ちの末に2人の子をもうけているのです。
ちなみに先程ご紹介した《聖母子と二天使》のモデルになったのは、まさにこのルクレツィアと息子のフィリッピーノ・リッピでした。
一応修道士であった彼らのこの様なスキャンダルは問題となり告発されたのですが、コジモ・デ・メディチがとりなしてくれたことで、フィリッポ・リッピは教皇から許しを得て、ルクレツィアとの正式な結婚が認められたのです。
修道院の規則をたびたび破り、冗談好きで周囲を困らせることもしょっちゅうだったフィリッポ・リッピ。
何かと運がいい人物です。
きょうのまとめ
今回は、イタリアで活躍した聖職者にして画家のフィリッポ・リッピについてご紹介してきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、フィリッポ・リッピとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると
① イタリアルネサンス前期、第二世代の画家であり修道士。
② マザッチョやフラ・アンジェリコ、フランドル絵画等の影響を受け、崇高さの中に世俗性を感じさせる宗教画を多く遺した。
③ 私生活は自由奔放でスキャンダルに満ちていた。
フィリッポ・リッピとルクレツィアの間に生まれた息子、フィリッピーノ・リッピ。
彼も後に画家として活動し、考古学的な趣味とユニークで幻想的な想像力からなる作風で、マニエリスム絵画の先駆的存在として歴史にその名を遺しています。
制作途中で死去した父に代わり、彼がスポレート大聖堂のフレスコ画を完成させました。
【参考文献】
・ブリタニカオンラインジャパン 大項目事典「リッピ」
・Britannica ACADEMIC -Fra Filippo Lippi-
・フィリッポ・リッピ -主要作品の解説と画像・壁紙-
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/filippo.html
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