カラバッジョとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

16世紀末~17世紀初頭にかけて活躍したイタリアの画家、

カラバッジョ

光と闇の強烈なコントラストとドラマチックな描写が印象的な作品を多く遺し、後世に多大な影響を与えました。

そして画家自身の私生活もまた、光と闇の側面が強く印象的なのです。

カラバッジョとは一体、どのような人物だったのでしょうか。

今回は、主な功績やエピソードと共に彼の生涯について見ていきましょう。

 

カラバッジョはどんな人?

プロフィール
カラヴァッジョ

カラヴァッジョの肖像画(1621年頃、オッタヴィオ・レオーニ画)
出典:Wikipedia

  • 出身地:イタリア ミラノ
  • 生年月日:1571年9月28日(または29日)
  • 死亡年月日:1610年7月18日(享年38歳)
  • イタリアの画家。初期バロック様式の巨匠。

 

カラバッジョ 年表

年表

西暦(年齢)

1571年(0歳)イタリア、ミラノにある田舎の村カラバッジョにて、石工兼大工の息子として誕生。

1584年(13歳)ロンバルディア地方に大流行したペストにより、祖父、父、叔父を相次いで亡くし、フレスコ画家のもとに弟子入りする。

1588年(17歳)ミラノを離れ、この頃からヴェネツィアとフィレンツェに滞在する。

1593年(22歳)ローマにあるダルピーノ工房に所属する。

1595年(25歳)絵画作品《バッカス》によりカトリックの枢機卿に才能を認められ、画家としてのキャリアが軌道に乗り始める。

1598年(28歳)約2年かけ、初期代表作である祭壇画《聖マタイと天使》と2つの側壁画《聖マタイの召命》《聖マタイの殉教》を描く。

1606年(35歳)賭博による喧嘩で友人を刺殺する。ローマを離れ各地で亡命生活を送る。

1607年(36歳)ナポリで多くの作品依頼を受けた後、マルタ島に移り依頼を受け、聖ヨハネ騎士団からナイトの称号を授与される。しかし喧嘩がもとで投獄された後に脱獄。シチリア島に渡り各地に作品を遺していく。

1608年(37歳)パレルモからナポリに渡る際に襲撃に遭い、全治9ヵ月の重傷を負う。

1610年(38歳)恩赦を求めてローマに向かう旅の道中に、熱病で死去。

 

カラバッジョの生涯

ここからは早速、カラバッジョの功績を辿っていきましょう。

意識的な様式改革

カラバッジョが画家として一躍有名になったのは、彼が20代の半ばを迎えた頃でした。

ミラノの田舎村で生まれ育った彼は、20代になるとヴェネツィアやフィレンツェで、そしてローマに移り作品制作を行っていました。

カラバッジョの初期作品の主題は主に現実生活に根差したもので、《果物籠を持つ少年》などの様に、その多くが若々しい青年をモデルに描かれています。

当時のローマは、ルネサンスもほとんど終わりかけの後期マニエリスムの時代でした。

マニエリスム様式を簡単に説明すると、

「ルネサンス様式の自然観察に基づいた表現を、あらゆる面から誇張するいわば非自然的に洗練させた」

のが特徴です。

しかし、それも後期となると先人達の功績をやみくもに踏襲するだけの、まさにマンネリ化状態でした。

そんな中でカラバッジョの

・静物画等の大画面以外のジャンルで作成

・北イタリア画派由来の写実表現と明暗

・ヴェネツィア派の色彩や構図と明暗

等の反マニエリスム的作風は、新たな芸術様式を予感させるものだったのです。

この頃のカラバッジョにとって最も重要なパトロンとなったのが、ローマ・カトリック教会のデル・モンテ枢機卿でした。

《バッカス》によってカラバッジョの才能を認めた枢機卿の紹介により、初めて受けた大きな依頼が礼拝堂の祭壇画と側壁画でした。

サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂のコンタレッリ礼拝堂にある

・《聖マタイと天使》

・《聖マタイの召命》

・《聖マタイの殉教》

はいずれも初期の代表作であり、彼の名を一躍有名にした傑作です。

《果物籠を持つ少年》

『果物籠を持つ少年』
出典:Wikipedia

ローマで得た名声

ローマで名声を獲得したカラバッジョは、それ以降自身の主題も大きく変化。

ほとんど宗教画に専念することになります。

古くから絵画の主題になってきた宗教画に対し、カラバッジョ独自の全く新しい解釈と図像からなる作品を次々生み出していきます。

・死やドラマチックなテーマを選ぶ

・伝統的な図像や曖昧な抽象概念を破棄

・一般人を登場させる

等々、ルネサンス期からの流れを汲む堅さからの脱却を図りつつ、そこにさらにリアリティーある劇的な表現を持ち込んでいったのです。

またカラバッジョ作品の特筆すべき特徴に、強烈な明暗効果が挙げられます。

光と闇、そして色彩にもこだわった彼は、次第に初期の華やかな青年たちを描いた作品とは異なり、画面上の色も限定的になっていきました。

・《キリストの埋葬》

・《聖母の死》

等は、カラバッジョ中期の作品として代表的なものです。

こうした彼の意識的にマニエリスムからの脱却を図る作風は、後にバロック様式として引き継がれていくことになります。

カラバッジョはまさに、豪華絢爛かつ劇的なバロック様式の礎を築いた人物でもあるのです。

《キリストの埋葬》

《キリストの埋葬》
出典:Wikipedia

亡命生活で遺した足跡

ローマで華々しい活躍をしていたカラバッジョでしたが、実はその私生活では問題ばかりでした。

少年時代から頭に血が上りやすかった性格は、大人になるとさらに質の悪いものになります。

暴力沙汰を起こし、30歳を迎える頃には度々警察沙汰になりました。

そしてカラバッジョの大きな転換期2つ目の出来事が起きたのは、35歳の時。

賭博に関して友人と揉め、決闘の末にその友人を刺し殺してしまったのです。

亡命を余儀なくされたカラバッジョは、イタリア中部の山中に逃れた後にナポリへ移動。

この地で数多くの注文を受け、大作を遺しています。

翌年にはマルタ島に渡り、聖ヨハネ騎士団の依頼に応えたことでナイトの称号を授かりますが、直後に団員と喧嘩沙汰になり称号は剥奪

投獄されてしまったカラバッジョでしたが、後に脱獄しシチリア島に逃れています。

この島でも各地で作品を遺した彼は、やがて再びナポリに渡るも襲撃を受けて大怪我を負います。

そして、恩赦を求めてローマに戻ろうとした旅の道中に熱病に罹り、1610年7月18日、38歳の若さで死去しました。

この晩年となった亡命時代の作風には、《ラザロの復活》などに見られるように、

・光と影のコントラストがより強調され抑圧された色彩

・荒い筆致で本質のみを浮き彫りにする表現

等の特徴が挙げられ、いずれも作品を遺した地域を中心に、国際的に後世へと影響を与えていくことになりました。

 

カラバッジョの本名と原点

ここでは、カラバッジョについてもう少し掘り下げるべく彼にまつわる小話をご紹介します。

1571年頃、イタリアのミラノにある田舎の村で誕生したカラバッジョ。

実はこの村の名前はカラバッジョと言い、彼のフルネームは

ミケランジェロ・メリジ・ダ・カラバッジョ

つまり「カラバッジョ村のミケランジェロ・メリジ」と言うのが画家カラバッジョの本名なのです。

ミケランジェロと言えば、あのルネサンスの巨匠と同じ名前ですね。

メリジは石工であり大工でもあった父方の苗字です。

しかし当時大流行したペストにより、父に祖父、そして叔父を相次いで亡くし、カラバッジョは13歳の時にはマニエリスム派の師のもとに弟子入りしています。

芸術様式の改革を行ったカラバッジョですが、それを可能にしたのは少年時代に伝統にしっかりと触れていたからとも考えられるのです。

 

きょうのまとめ

今回は、バロック様式の礎を築いた巨匠カラバッジョについて、主な功績やエピソードと共にご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、カラバッジョとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると

① 16世紀末~17世紀初頭のイタリア人画家。

② ルネサンス後期に現れた初期バロック様式の巨匠。

③ 殺人に喧嘩に脱獄と問題行動が絶えなかったが、画家としての才能は国内外問わず多くの人に衝撃を与え魅了し続けている。

荒々しくも緻密な写実性や劇的な表現等により、今なお多くの人々を魅了するカラバッジョの作品たち。

気性の粗さゆえに遍歴を余儀なくされたことで、その作風がマンネリ化せず、生涯画家として現役であり続けることができたのかもしれません。

 

【参考文献】
・ブリタニカオンラインジャパン 大項目事典「カラバッジオ」
・水野千依編『西洋の芸術史 造形篇Ⅱ 盛期ルネサンスから十九世紀末まで』藝術学舎、2013年

 

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