伊達政宗の居城である仙台城について

 

伊達政宗の居城と言えば、どこが思い浮かびますか?

ほとんどの方は「 仙台城 」だと思います。

政宗が仙台城を築城した背景は何なのでしょうか?

また、その後の仙台城の歴史についても興味がありますね?

それでは仙台城にまつわる話を進めたいと思います。

 

仙台城の成立と歴史

仙台城築城の経緯

関ヶ原の合戦で徳川家康が石田三成に勝利しました。

しかし、政宗の隣国・上杉家は徳川家に敵対していました。

万一の合戦に備えて砦、つまり山城が必要になったのです。

「 守りやすく、攻めにくい 」山城の造営が急がれました。

まずは城の造営が可能な丘陵地(きゅうりょうち)であることが求められ、加えて丘陵地が城下町を整える平野部に隣接している必要がありました。

それが仙台(青葉山)の地であったのです。

仙台城は仙台市の市街地西方に位置しています。

青葉山丘陵と広瀬川の河岸段丘(かがんだんきゅう)部分に城ができました。

仙台城の構成

仙台城は初代藩主・伊達政宗により造営(ぞうえい)されました。

関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)のことです。

その年の12月に縄張りが行われました。

建築用語の「 縄張り 」とは設計図通りに建物の位置を決める作業です。

翌年1月から普請(ふしん。土木・建築の工事)に着手し、工事は慶長7年(1602年)に一応、完成しています。

本丸は東側が広瀬川に臨む断崖でした。

西側を山林、南側に渓谷があり、さながら自然の要害(ようがい)でした。

その後の仙台城

政宗の死後、二代藩主の忠宗は山麓部(さんろくぶ)に二の丸を造営します。

二の丸は寛永16年(1639年)に完成しました。

以後は幕末まで、二の丸が藩政の中心となります。

幕末、伊達家は官軍に対抗、「 奥羽越列藩同盟 」(おううえつれっぱんどうめい)を形成します。

戦火こそ免れたものの、伊達家は領地削減の憂き目を見ます。

廃藩置県後、仙台城は明治政府の管轄(かんかつ)になりました。

1871年には二の丸に軍の施設が置かれました。

ところが、1882年の二の丸の火災で建物が消失する惨事がありました。

それにともない、本丸の建物も取り壊されました。

現在、二の丸は東北大学川内キャンパスに姿を変えています。

きょうのまとめ

仙台城は仙台藩62万石の城下町として栄えました。

防塁(ぼうるい)の要素が強かった仙台城でしたが、その役割を徐々に変えていきます。

後に、三の丸も造営され、年貢米を貯蔵する蔵があったことが判明しました。

また、近年の調査では「 元和 」と記された木簡(もっかん)が三の丸から出土しています。

政宗時代の庭園や茶室があったこともわかっています。

青葉山丘陵とその一帯に広がった仙台城の城下町、仙台。

現在は人口100万人を超える大都市です。

 

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