伊達政宗の家系図 その子孫たち

 

伊達政宗の子孫がその後どうなったのか、気になりませんか?

豊臣政権下では何度も改易の危機にさらされた伊達政宗ですが、

江戸時代に入ると徳川幕府配下の大大名となり、その子孫は幕末までその命脈を保ちます。

今回は伊達家の家系図を参考に、政宗の半生とその子孫たちにスポットを当てたいと思います。

 

伊達政宗の家系図

まずは、伊達政宗の家系図からみていきましょう。

伊達政宗の家系図

 

伊達家のはじまり

奥州に覇を唱えた伊達家の祖先は藤原氏とされています。

藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)の流れをくむとされています。

初代の朝宗が奥州藤原氏征伐の合戦で軍功をあげ、陸奥国伊達郡(現在の福島県伊達郡)を拝領しました。

朝宗から数えて17代目が政宗です。

 

政宗の誕生と半生

伊達政宗は永禄10年(1567年)に米沢城(山形県米沢市)に生まれました。

父は当主・輝宗、母は義姫(山形城主・最上義守の娘)です。

最上家から敵対する伊達家への輿入れという典型的な政略結婚でした。

義姫の兄は後に最上家当主となる義光(よしあき)です。

政宗は長じて奥州に覇を唱えるほど勢力を拡大しましたが、

時代は戦国の世から織田信長、豊臣秀吉による安定の時代へと向かっていました。

政宗も時代の波には抗いがたく、豊臣秀吉の小田原攻めに参戦して恭順の意を示します。

その後も秀吉はことあるごとに政宗を取りつぶそうと画策しますが、

政宗の知略がそれを許さず、やがて秀吉の死、関ヶ原の戦い、徳川幕府の成立に至ります。

江戸時代以降、政宗は仙台城に居を移し、仙台藩62万石の祖となります。

 

[関連記事: 自然の要害?!伊達政宗の居城、仙台城についてはこちら]

政宗以降の伊達家

政宗には10人の男子がいたとされています。

庶長子の秀宗は分家して宇和島藩10万石の藩祖となりました。

跡を継いだのは忠宗です。

仙台藩伊達家の当主は多くの男子に恵まれることが多かったのですが、

この時代の生活環境や医療水準の低さから早死する者も少なくありませんでした。

そのため、多くの大名家と同じく、傍系から養子を迎えるケースもありました。

 

仙台藩第5代藩主・吉村は、傍系の黒川郡宮床の領主の一族から本家の養子に入っています。

吉村の治世は40年余りに及びました。

破綻寸前であった仙台藩の財政を立て直した「 中興の英主 」としても有名です。

 

幕末の藩主・慶邦(よしくに)は「 奥羽越列藩同盟 」を組織して、新政府軍に抵抗します。

破れた慶邦は謹慎を命じられました。

この時の戦争で仙台藩伊達家の領地は大幅に削られ、28万石に減封されました。

地下の政宗は時代の流れを読み切れなかった子孫をどんな思いで、見つめていたのでしょうか。

 

まとめ

伊達政宗の卓抜した知略と武勇によって、

伊達家は江戸時代以降も62万石の巨封と、名門としての地位を保つ基礎ができました。

政宗が愛用した武具が現代まで保存されていたという事実は、

伊達家が時の権力者であった徳川幕府とうまく折り合いをつけて、

その命脈を保っていたからと言えるのではないでしょうか。

そこには歴代藩主をはじめ、多くの家臣たちの努力が結集されています。

 

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