足利義満が建てた金閣寺とその文化

 

足利尊氏が室町幕府を開いた頃を南北朝の時代と言います。

朝廷の勢力が南北に分かれていたのです。

足利尊氏の孫にあたるのが3代将軍足利義満です。

義満の建てた金閣寺は今も多くの観光客を呼んでいます。

では義満はなぜ金閣寺を建てたのでしょう。

その謎を解きながら当時の文化についても調べてみましょう。

 

金閣寺を建てた理由

足利義満は将軍の座を息子の義持に譲り、
自分は太政大臣として政権を握っていました。

その後隠居した義満は自分の隠居先として、
1397年に鹿苑寺(ろくおんじ)を立てました。

これが後に金閣寺と呼ばれるところです。

金箔をふんだんに貼り付けたキラキラとした金閣寺は、
とても美しいものです。

この派手な金閣寺にはどのような意図があったんのでしょう。

金閣寺の1階は公家
2階は武家
3階は中国の禅宗とそれぞれの階で様式が違うのです。

1階は木造で金箔は貼られていません。

2階と3階は金箔だらけでキラキラしています。

つまり、公家より武家の方が上であり、
それ以上に中国皇帝がいるのだということなのです。

義満は明(当時の中国)の皇帝から
日本国王 」と呼ばれています。

ですからこの金閣寺は自分の権力の象徴として、
皆に知らしめるためのものだったのです。

 

金閣寺の鳳凰

金閣寺の屋根の中心には、
黄金の鳳凰がいます。

鳳凰は伝説の鳥で、
とても縁起の良いものです。

この鳳凰を屋根に飾ることにより、
義満は朝廷より上で、
天皇にふさわしい人物なのだと言っているのです。

隠居したとはいえ、
まだまだ上を見ていたのでしょう。

 

義満亡き後の金閣寺

金閣寺は義満の死後、
10年も続いた応仁の乱(1467年から1477年)で焼失したり、
風雨に晒されたりでどんどん痛んで行きました。

1649年と1906年に大掛かりな招福を行なったにも関わらず、
またその50年後に心ない者が放火し全焼してしまうという災難に見舞われました。

焼失から2年後の1952年再建が始まり、
1955年には見事に蘇ったのです。

そして1987年には「 昭和の大修復 」が行われ、
またまた立派に修復がなされました。

今人々が見ている金閣寺は、
実は足利義満の建てたものではないのでとても残念ですが、
その作りは見事に再現されているのです。

北山文化

足利義満の時代、
つまり室町時代初期の文化を北山文化と言います。

この頃公家と武家の文化が融合した時期でもありました。

その上明との貿易や全集などを通じて大陸文化の影響もかなり受けています。

義満の建てた、金閣寺を代表とした建築文化や、
能面を彫る能面文化などが盛んでした。

また「 太平記 」などの文学や、
水墨画なども盛んに作られたのです。

 

きょうのまとめ

足利尊氏の開いた室町幕府の中で、

最も安定した力を持っていたのは足利義満の時代だったと言えるでしょう。

その代表として金閣寺があるのです。

しっかり政治をやりながら、

文化の発展にも貢献した義満は名将軍だったのかもしれません。

 

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