足利義満とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

室町幕府第3代将軍の足利義満といえば、金閣寺を建てたことで有名です。

室町時代の中で最も華やかな時代だったと言えるでしょう。

アニメの「一休さん」にも登場して、

いつもとんちで負けている将軍様のイメージのある足利義満は

実際にはとても厳しく、賢明な人だったようです。

そんな足利義満はどのような生涯を送ったのでしょう。

今回は足利義満について見ていきましょう。

 

足利義満とはどんな人?

プロフィール
足利義満

足利義満像(鹿苑寺蔵)
出典:Wikipedia

  • 出身地:京(現在の京都市)
  • 生年月日:1358年8月22日
  • 死亡年月日:1408年5月31日(享年50歳)
  • 室町幕府第3代将軍。金閣寺を建て文化的にも貢献した人物

 

足利義満 年表

年表

西暦(年齢)

1358年(1歳)京都に生まれる。(幼名、春王)

1368年(10歳)父・義詮の死により家督を継ぐ。三代目将軍となる。

1378年(20歳)京都に花の御所を作り室町幕府を移す。

1391年(33歳)明徳の乱が起きる。

1392年(34歳)南北朝を統一する。

1394年(36歳)将軍職を息子に譲り、太政大臣になる。

1395年(37歳)太政大臣を辞め隠居する。

1397年(39歳)金閣寺を建てる。

1399年(41歳)応永の乱が起こる。

1404年(46歳)明との貿易を始める。

1408年(50歳)義満が死去する。

 

足利義満の生涯

1358年8月 足利義満の誕生

室町幕府を開いた足利尊氏が亡くなってからちょうど100日目。

1358年8月に足利義満は誕生しました。

父は尊氏の嫡男、足利義詮よしあきら、母は紀良子(きのりょうし又はきのよしこ)という女性でした。

幼名は春王と言います。

義満の母は正室ではなかったのですが、

正室の渋川幸子しぶかわこうしとの間に生まれた千寿王が幼くして亡くなったため、

義満が後を継ぐことになりました。

義満の幼い頃はまだ南北朝が争っている時期でした。

その上足利家の内紛「観応かんのう擾乱じょうらん」も起き、

義満は播磨白旗城(兵庫県)へ避難していました。

幕府側(北朝)が勝利したため、再び京に戻りました。

1367年 足利義詮死去

1367年の暮に父の義詮が病に倒れ亡くなりました。

義満は10歳で将軍職を継いだのです。

1374年 日野業子を正室に

1374年には日野業子ひのなりこを正室として迎えています。

16歳で結婚したわけですね。

1378年 花の御所

1378年には「花の御所」を作り幕府をそこへ移しました。

義満は20歳になっていました。

父や祖父を超える勢いでどんどん出世をしていった義満は、

1383年に武家としては初めて「源氏長者」となりその地位も上がっていきました。

1392年 明徳の和約

1392年、58年間にもわたって続いた朝廷の分裂をついに終わらせました。

南朝の所持していた三種の神器(神話の中で天照大御神から授けられたとする鏡、玉、剣のこと)を

北朝の後小松天皇に渡すことで南朝がなくなり、南北の統一がなされたのでした。

これを「明徳の和約」といいます。

1397年 金閣寺建立

足利義満は1394年に息子の義持に家督を譲り隠居しました。

しかし、政治的な実権はまだ握ったままでした。

平清盛に次いで2人目の太政大臣にまで登りつめたのでした。

翌年には太政大臣も辞め、今度は出家します。

そして1397年にはあの金閣寺を建てたのです。

この時まだ九州や四国地方では幕府に反抗する者がいました。

1399年 応永の乱

1399年、大内義弘が挙兵したのを見事に討伐し、ついに西日本で義満に対抗できる力はなくなりました。

これを「応永の乱」と言います。

1404年 明との貿易

義満は若い頃から中国との貿易を夢見ていました。

そして日本で1番権力を持つ立場になり、

1401年ついに明へ使者を送ることができ、1404年には明との貿易が始まったのです。

これにより義満はより力を強めたのでした。

1408年 義満死去

1408年、義満は病に倒れました。

義持たちは病気平癒のための祈祷や加持を行いましたが、ついに還らぬ人となりました。

享年51歳でした。

足利義満は、等持院で火葬され遺骨は鹿苑院に葬られました。

 

明徳の乱と応永の乱

ここでは、足利義満の力を絶大にした2つの「乱」についてみていきましょう。

明徳の乱

明徳の乱の元となった山名家の内紛についてみていきましょう。

<山名家の内紛 勢力図>

山名師義もろよし※惣領
|
山名時義ときよし(師義の末の弟)※師義死亡により惣領になる
|
山名時熙ときひろ(時義の子)※時義死亡により惣領になる

—– 内紛勃発 —–

山名時義の子(山名時熙、山名氏之うじゆき

vs

山名師義の子(山名氏清うじきよ、山名満幸みつゆき

明徳の乱は1391年に山名氏清、山名満幸ら山名氏が幕府に対して起こした反乱です。

当時の幕府の力はまだまだ万全とは言えず、

逆に山名氏は11もの所領を持ち圧倒的な勢力を誇っていました。

幕府は、山名家惣領・山名師義の死去を機に、内紛をけしかけその力を失わせることを各策します。

山名師義の死去に際し4人の息子が若かったため、中継ぎとして師義の末の弟・時義が惣領となりました。

不満に思ったのは、師義の子供である氏清や満幸でした。

そして、時義が亡くなった時、惣領の地位は時義の子供、山名時熙に移っていたのです。

惣領になれなかった氏清、満幸は大いに怒り内紛が起こりました。

義満は時熙、氏之の討伐を、氏清、満幸に命じ山名家の本格的な解体を図りました。

これが成功し、氏清らは時熙らの領地を与えられました。

しかし、ここまでは山名氏の勢力圏はなんの損害もありません。

義満は満幸の些細な落ち度を責め、逆に時熙・氏之を許し、満幸たちを追放。

満幸はその挑発に乗り、明徳の乱が起こったのです。

結局、山名氏は大敗します。

この戦いで山名氏は3つの所領を残すのみとなり、力を失いました。

応永の乱

応永の乱は、1399年に守護大名だった大内義弘室町幕府に対して起こした反乱です。

義満の政権に不満を募らせての乱でした。

義弘は堺に強固な城を作り幕府軍と対立しますが、幕府軍によって火をかけられ激しい戦いが続きました。

この時大内義弘は項羽の討ち死にのように、

自分も見事な最期を遂げようと決め、敵に囲まれながら1人戦い続けました。

最期は

天下無双の名将大内義弘入道である、打ち取って将軍のお目にかけよ

と言い討ち取られています。

この2つの乱の結果、足利義満はその力をより強大なものとしたのでした。

 

足利義満にまつわるエピソードや伝説

義満の死は暗殺だった?

足利義満は、将軍、太政大臣と務め、貿易の相手の明からは

「日本国王」と呼ばれ、この上ない権力を持っていたのです。

しかし、皇族ではないため天皇にはなれません。

そこで義満は皇位簒奪こういさんだつを目論んでいたのではないかと言われています。

皇位簒奪とは、皇位継承権のないものが天皇の地位を奪うことを言います。

そんなことを許してはおけないと思った皇族側の人間により暗殺されたのではないかと言うのです。

あくまでも推察の域を超えてはいませんが、

これだけの権力を持った人ですから暗殺計画の1つや2つあってもおかしくはないですね。

 

関連記事 >>>> 「足利義満はなぜ日本国王と呼ばれたのか?」

日本で初めてお酒に課税をした義満

多くの乱を経験して、お金に困った義満は、お酒に課税することを思いつきます。

1つのツボに200文だったそうで、

今で考えると約2万円くらいだったそうです。

そんな高いお酒は庶民にはとてつもなく貴重品だったでしょう。

義満少年5歳の頃

まだ南北朝が統一されていなかった頃のお話です。

父親の義詮と、一旦京都から逃げていた時期があります。

その帰りに琵琶湖付近を通りかかりその風景がとても気に入ったようで、家臣のものに

この景色を担いで京に持って帰れ

と命令したそうです。

子供だったので真面目にそれができると考えたのかもしれません。

家臣の困った顔が眼に浮かぶようです。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

足利義満についていかがでしたでしょうか。

足利義満とは?

① 多くの乱を制圧し、強大な力を持った

② その死は暗殺だったのか?

③ お酒に税金をかけた人

④ 景色を持って帰りたがった感性豊かな少年時代

⑤ 金閣寺を建て、文化を発展させた人

と言えるのではないでしょうか。

その他の記事についても足利義満にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

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