足利義政とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

足利義政は、

室町幕府第8代将軍です。

政治にはあまり興味のない人だったようで、

銀閣寺をはじめとして和歌や水墨画など文化的な面に夢中だったそうです。

それゆえ彼のおじいさんに当たる足利義満の北山文化と並んで、

東山文化と呼ばれるほどになりました。

政治には疎いが、文化を極めた足利義政という人物についてみていきましょう。

足利義政とはどんな人?

  • 出身地: 京(現在の京都市)
  • 生年月日: 1436年
  • 死亡年月日: 1490年1月27日(享年 55歳)
  • 応仁の乱のきっかけとなった人物

 

足利義政 年表

年表

西暦(年齢)

1436年(1歳)京都に生まれる。(幼名、三春)

1441年(6歳)嘉吉の乱で父が殺され、兄の義勝が第7代将軍となる

1443年(9歳)兄の義勝が死去

1449年(14歳)第8代将軍になる

1455年(20歳)日野富子と結婚

1464年(29歳)出家していた弟義視を後継者にすべく還俗させる

1465年(30歳)日野富子が男子(義尚)を出産 

1467年(32歳)応仁の乱が起こる

1473年(38歳)義政は義尚に将軍職を譲り隠居する

1477年(42歳)応仁の乱が終わる

1482年(47歳)東山に銀閣寺を建て始める

1485年(50歳)出家し仏門に入る

1489年(54歳)義尚が死去したため、政治に復帰

1490年(55歳)銀閣寺の完成前に死去

 

足利義政その生涯

足利義政の父義教が暗殺された後、
兄義勝が第7代将軍となリます。

しかしその兄も早逝したため、
義政は1449年に14歳で室町幕府第8代将軍になりました。

20歳になった頃、
日野富子を正室に迎えました。

義政の生母、日野重子は富子の大叔母にあたります。

優柔不断な性格が応仁の乱を引き起こしてしまった

足利幕府の時代で最も大きな戦いは応仁の乱です。

これは義政の後継者を巡って、
弟の義視を押す側と、息子の義尚を押す側に別れて
11年間にも渡って続いた戦さです。

と言っても正確には後継者争いと同時に、
守護大名たちの争いでもあったので、
各地の豪族たちがあちらこちらで戦っています。

 

[関連記事: 義政の優柔不断が原因?11年間に及ぶ大きな戦乱。そして戦国の世へ] [関連記事: 応仁の乱に巻き込まれた?足利義政の弟、義視についてはこちら]

応仁の乱の後

世の中が戦乱の中にある時、

義政は祖父、足利義満の真似をして
東山に銀閣寺を建て風流な生活を極めようとしていました。

応仁の乱の後、

将軍職を息子の義尚に譲っていた義政でしたが、
政治の実権は握り続けたままでした。

そのため義政と義尚の仲は険悪なものでした。

そして50歳を迎えた義政は出家し、
義尚に政治も任せることにしました。

しかし義尚が六角討伐の陣中で死亡したため、
義政はやむなく政務に復帰することになりました。

これには日野富子が反対しました。

そして義政自身も病気で倒れてしまいます。

そして義視の嫡男を養子として迎え次の将軍を約束し、
この世を去りました。

享年55歳(満54歳)での死去でした。

 

足利義政にまつわるエピソードや伝説

恐妻 日野富子

足利義政の妻、
日野富子はとても勝気な人でした。

政治を側近に任せて、
側室を何人も抱え短歌などにうつつを抜かしている夫に失望します。

富子は、
自分の子供を生まれてすぐに亡くしました。

それを側室の1人の呪詛によるものだと言いがかりをつけ、
側室を皆追放したのです。

女性の妻としての恨みは怖いですね。

この勝気さが、
のちに応仁の乱を引き起こすことになるのですから怖いというレベルではないですね。

金閣寺と銀閣寺

足利義政は、
祖父にあたる足利義満に憧れていました。

ですから早々に隠居し東山で風流な生活をしながら、
義満のように政治を裏から動かしたいと思っていたのです。

全く政治に興味がないわけではなかったようですが、
恐妻の日野富子が政治も牛耳っていたようです。

おかげで義政は東山文化を立派なものとして残すことができたのですが。

義満は北山に金箔で覆われた金閣寺を建てます。

一方義政は、東山に銀閣寺を建てます。

この銀閣寺という名前は後の世につけられた名前で、
義政の建てた当時は慈照寺と呼ばれていました。

義満の金閣寺に対して、
人々が銀閣寺と呼んだのです。

義政はこの慈照寺を銀箔にしようとは思っていませんでした。

彼の目指したのは「 わびさび 」の心で、質素な中に風流を見出すことでした。

これはとても評価に値するものでした。

しかし彼の銀閣寺はあちらこちらから奪ってきたものでできていました。

長年続いた応仁の乱のせいでお金がなかったのです。

松の木や、蓮の花など他の寺院にあるものを奪ってきたのです。

挙句金閣寺からも庭石等を奪っています。

そうまでして銀閣寺に凝っていた義政は、
残念なことにその完成を見ることなく亡くなってしまったのです。

義政にとってとても悔しいことだったでしょう。

おまけに義政の死後、
奪ってきた色々なものが、元の寺に取り返されたそうです。

[関連記事: 銀閣時と呼ばれたのは江戸時代から。足利義政の銀閣寺建立についてはこちら]

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。足利義政についていかがでしたでしょうか。

足利義政とは?

① 室町幕府第8代将軍

② 11年間に及ぶ戦い。応仁の乱のきっかけを作った人

③ 妻の日野富子に頭が上がらなかった

④ 銀閣寺を建立した人

と言えるのではないでしょうか。

その他の記事についても足利義政にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 

[関連記事: 足利義政の先祖と子孫についてはこちらをどうぞ]

 










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