大友宗麟とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

大友宗麟(おおともそうりん)とはどんな人物だったのでしょう。

キリシタン大名ということ以外は、あまり知られていないのではないでしょうか。

そこで今回は、大友宗麟についてまとめてみようと思います。

 

大友宗麟はどんな人?

  • 出身地: 豊後国(現在の大分県)
  • 生年月日: 1530年
  • 死亡年月日: 1587年6月11日(享年 58歳)
  • 大友家を繁栄に導いた、キリシタン大名

大友宗麟 年表

年表
西暦(年齢)

1530年(1歳)豊後国府内(ぶんごのくにふない)に生まれる。(幼名、塩法師丸)

1550年(21歳)お家騒動「二階崩れ」が起こる。これにより家督を相続。

1554年(25歳)キリスト教の布教を許可。

1555年(26歳)毛利元就と敵対をはじめる。

1559年(30歳)幕府から豊前・筑前の守護職を任命される。

1562年(33歳)毛利元就に大敗し、居城を臼杵城に移す。出家し宗麟と名乗る。

1576年(47歳)隠居し、家督を嫡男・大友義統(おおともよしむね)に譲る。

1578年(49歳)耳川の戦いで、島津軍に大敗。洗礼を受け正式にキリスト教になる。

1586年(57歳)島津軍に臼杵城を攻められるが、国崩しを使い勝利する。

1587年(58歳)病死。死因はチフスとされる。

大友家の全盛期を作り上げた苦労人

宗麟の時代に大友家は繁栄を迎えます。

全盛期には豊後・豊前・筑後・筑前・肥後にまで支配下に置きました。

そんな宗麟ですが、順風満帆だったわけではありませんでした。

宗麟は嫡男でしたが、父・義鑑(よしあき)は三男・塩市丸(しおいちまる)を溺愛し、

塩市丸に家督を譲ろうとし、宗麟側の家臣を殺害しようと画策します。

それを察知した宗麟側の家臣たちは身の危険を感じ謀反(むほん)を起こします。

塩市丸とその母親を殺害し、義鑑も重症を負い2日後に亡くなります。

これが大友家のお家騒動「 二階崩れ 」です。

謀反が二階で行われたことからそう言われています。

これによって宗麟は家督を継ぐことになるのですが、

父親に廃嫡されそうになるなど、なかなかの苦労人だったのです。

 
[関連記事:大友宗麟と家系図についてはこちら]

 

大友宗麟にまつわるエピソードや伝説

大友宗麟にまつわるエピソードや伝説をまとめてみました。

宗麟の洗礼名とは

大友宗麟の名前で知られていますが、宗麟とは仏門に入った証として与えられる法号です。

本当の名前は義鎮(よししげ)と言います。

ましてや宗麟は「 キリシタン大名 」としても有名ですから、仏教と聞くと驚きますよね。

宗麟が仏教の法号ということは、キリシタンとしての洗礼名が気になります。

宗麟は49歳の時に、宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、

正式にキリスト教徒になるのですが、洗礼名は「 ドン・フランシスコ 」と言いました。

それからは自らも「 ドン・フランシスコ 」と名乗り、書状の署名では「 府蘭 」を用いています。

キリスト教が大友家衰退の原因?

宗麟はキリシタンになると、キリスト教布教のために「 彦山焼き討ち 」「 万寿寺炎上 」など

神社仏閣を徹底的に破壊します。

建物だけでなく、仏像や経典といったものまで破壊し尽くしています。

それだけでは足りずに、代々大友家に伝わっていた「 だるま 」も破壊しました。

宗麟が破壊したのは侵攻した日向のみで、本拠地の豊後・筑後の神社仏閣の破壊は

息子である義統(よしむね)が先導したと言われています。

しかし宗麟がキリスト教徒になったことで、大友家の家臣が動揺したのは事実です。

家臣の中で宗教対立が起こり、家臣の離反を招く結果となってしまいました。

名君か、暗君か

宗麟の評価は「 大友家を衰退へ導いた 」とされ、あまり高い評価を受けていません。

しかし暗君とも言えない宗麟の姿があるのです。

宗麟は人々のために育児院や学校を建て、日本で初めての病院を豊後に建設します。

病院では、身分や貧富の差を問わず無料で診察を行うようにします。

これは当時としては、画期的なことです。

キリシタンになり西洋の文化を知る機会の多かった宗麟だからこそ出来た事でしょう。

さらに島津軍との戦いで臼杵城(うすきじょう)に篭城する際には、

キリスト教徒か仏教徒かにかかわらず城に非難させ、自ら握り飯を配ったと言います。

領主として民を思いやる、名君としての姿が垣間見えます。

 
[関連記事:大友宗麟の城についてはこちら]

 

きょうのまとめ

大友宗麟についてまとめてみましたが、いかがでしたか。

大友宗麟とは?

① 大友家の全盛期を作った

② 洗礼を受けてキリシタン大名となった

③ キリシタンになったことで大友家の混乱を招いた

④ 評価が低い武将だが、名君の一面を持つ

今でこそ宗教の自由は保障されていますが、当時としては大変なことだったでしょう。

己を貫き通した宗麟は、とても強い意志を持っていた武将とも言えます。

大友宗麟に興味が湧いた方は、ぜひ他の記事も読んでみてください。

 

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