山内一豊と掛川城

 

浪人の身から武功を重ねて土佐一国の大名となり、

土佐藩の祖として歴史に名を残した山内一豊(やまうちかつとよ)。

2006年の大河ドラマ「 功名が辻 」で主役に抜擢され、妻・千代と共にその知名度は大きく上がりました。

一豊は出世と共にその身分も上がっていき、様々な城の城主を務めていました。

いくつもの城を転々とした一豊ですが、その中でも掛川城の城主を務めていたことは、一豊のあるエピソードによって良く知られています。

今回は一豊と掛川城の関係やエピソードについて詳しく解説していきます。

どうぞ最後までお読みください。

 

山内一豊と掛川城

一豊は掛川城の城主を務める前には、豊臣秀吉が築城したことで有名な長浜城の城主を務めていました。

その後、主である豊臣秀次が領地を新たに与えられると一豊もそれに伴って遠江国(静岡県)の掛川城主に就任。

5万1000石の知行を与えられます。

掛川城の改築

主・秀次が秀吉によって粛清される「 秀次事件 」が起こると一豊は秀吉の命に従って、

秀次を取り調べた功績で8000石の加増を受けます。

一豊はかつて今川氏の家臣であった朝比奈氏が築城した、この掛川城に大規模な改築工事を行いました。

城下町の整備や石垣の改築を行い、

掛川城は「 東海の名城 」として後世まで高く評価される美しい外観であったと伝わっています。

その後の掛川城

一豊は関ヶ原の戦い後、家康から功績を認められて土佐一国を与えられ、高知城に移封します。

その後、多くの大名が入れ替わりで掛川城主を務める時期もありましたが、

18世紀の半ばからは室町時代の名将、太田道灌(おおたどうかん)の一族が城主を務め、

太田氏の統治は幕末まで続きました。

地震による倒壊から復興まで

1854年、東海道を中心とした大地震が発生します。(安政東海地震)

この大地震で掛川城は天守閣をはじめとする大部分が崩落し、城下町も火災によりほとんどが焼けてしまったと伝わっています。

1861年には掛川藩の政庁であった二ノ丸御殿は復興されたものの、

崩れ落ちた天守閣は再建されることなく、そのまま月日は流れていきました。

そして、1994年についに天守閣は再建されます。

当時の史料などを参考にして、当時の建築方法に基づいて建てられたこの天守閣は、

「 日本で最初の木造復元天守 」として有名です。

外観は3装、内部は4階の構造となっています。

一豊は高知城を築城するにあたって「 掛川城のままに 」という指示を出していた史料が残っていたため、復元の際には、高知城を参考にして建てられます。

一豊が改修した往時の姿を見事に取り戻したその美しい外観は「 日本100名城 」の1つにも選ばれました。

掛川城は、掛川の地元民のシンボルとして、現在も美しい姿を保ち続けています。

掛川城に関する逸話

掛川城に関する逸話についていくつかご紹介いたします。

霧吹き井戸

永禄12年(1569年)、一豊以前に城主を務めていた朝比奈泰朝(あさひなやすとも)は、主君・今川義元を桶狭間の戦いで亡くした後、

本拠地を無くして逃げ込んで来た義元の息子、氏真(うじざね)を掛川城に匿います。

掛川城はその後、徳川家康の攻撃を受けて徳川軍に包囲されてしまいます。

しかしその時、天守にある井戸から霧が上がりその霧は城全体を包んで、徳川軍から城を守ったのです。

この伝説から、この井戸は「 霧吹き井戸 」と呼ばれており、現在も掛川城の天守丸に存在しています。

主のためなら城も明け渡す

関ヶ原の戦い直前に、会津の上杉景勝を征伐するために向かっていた家康の軍勢は、会津まであと一歩のところで石田三成が挙兵したことを聞かされます。

家康か三成か多くの大名が迷いを見せる中で、一豊は真っ先に自らの居城である掛川城を家康に明け渡すことを表明します。

この一豊の行為に、周りの大名達も次々と城を提供する意思を表明します。

これに感激した家康は関ヶ原の戦いの後、一豊に土佐一国を与えました。

 

きょうのまとめ

いかがでしたでしょうか。

一豊は掛川城を名城とした後土佐に移転して高知城を建築しますが、

この高知城もまた美しい外観をなしており、日本100名城に選定されています。

一豊は、その武勇と忠誠心で名を残しただけでなく、美しい名城も後世に残していたのですね。

山内一豊については他にも様々な記事を書いています。

興味のある方は是非御覧になってください。

 

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