橋本左内とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

福井藩士だった橋本左内はしもとさないは、国を思って奔走した幕末の若き聡明な志士でした。

安政の大獄によって26歳という若さで命を散らすことになった左内とはどんな人物だったのでしょうか。

 

橋本左内はどんな人?

プロフィール
橋本左内

福井市立郷土歴史博物館蔵(島田墨仙作)
出典:Wikipedia

  • 出身地:越前国常磐町(現福井市春山)
  • 生年月日:1834年3月11日
  • 死亡年月日:1859年10月7日(享年26歳)
  • 福井藩主・松平春嶽しゅんがくの右腕として幕府体制の改革を目指したが、安政の大獄によって刑死した
 

橋本左内年表

年表

西暦(年齢)

1834年(1歳)越前国(現在の福井市)福井藩医・橋本長綱ながつなの家に生まれる

1849年(16歳)大阪の適塾に留学して西洋の学問を学ぶ

1853年(20歳)黒船来航

1856年(23歳)江戸の薩摩藩邸に西郷隆盛を訪ねる。御書院番(松平春嶽の側近)に任命される

1857年(24歳)藩校・明道館御用掛り・学監(校長)同様心得に任命される。一橋派の中心として将軍継嗣問題で活躍

1858年(25歳)井伊直弼が大老になる。井伊直弼により日米修好通商条約締結。安政の大獄の開始

1859年(26歳)安政の大獄にて斬首される

 

橋本左内の生涯

福井藩の医者の息子として生まれた橋本左内。

彼は人の病気を治療する医者ではなく、天下国家を治す医者を目指しました。

左内の深まる見識と広がる交流

1834年、橋本左内は越前国福井藩の奥医師(外科医)である橋本長綱の長男として誕生しました。

幼い頃から非常に聡明だった彼は、すでに15歳で自分の生き方についての考え『啓発録』を著わしています。

16歳の時、大坂で緒方洪庵の適々斎塾てきてきさいじゅく(適塾)に入塾。

蘭学・医学を学びましたが、単なる医師になるつもりはなかったようです。

「医者には小医、中医、大医がある。小医は病気を治し、中医はそれを教える。しかし大医は天下国家を治す」

と語り、世界情勢に目を向け、日本の未来のために必要な見識を深めていきました。

左内の優秀さは広く知られるようになり、

・横井小楠しょうなん

梅田雲浜うめだうんぴん

・西郷隆盛

・藤田東湖とうこ

ら当時の思想家活動家とも交流しています。

特に同年代の西郷隆盛とは親交を深くしました。

 

順調な出世

1582年、父親が病に倒れたため、福井に帰郷して藩医を継いだ左内でしたが、1854年には江戸に戻り、英語やドイツ語を独学で習得。

藩主・松平春嶽は、聡明な左内に藩医としてではなく武士として活躍の場を与えます。

1857年、彼は藩校「明道館」学監(校長)同様心得となり、

・藩内の教育改革

・洋書習学所の開設

・藩政改革(特産品の有効活用などの実学重視による財政難の立て直し)

などを実施したのです。

左内、安政の大獄に死す

1853年の黒船来航以来、日本の情勢は慌ただしくなり、それに合わせて13代将軍・徳川家定の将軍継承問題が浮上。

松平春嶽は、水戸藩主・徳川斉昭なりあきの息子で一橋家の養子・一橋慶喜ひとつばしよしのぶ(のちの徳川慶喜)を次期将軍に推す一橋派でした。

左内は春嶽を支え、才知に抜きん出た慶喜を将軍にして雄藩連合で幕藩体制を維持し、西洋技術の導入・対外貿易の実施で海外の列強に対抗しようとする幕政改革を訴えたのです。

しかし、紀州藩主・徳川慶福を次期将軍にしたい南紀派の井伊直弼が大老になると、一橋派への弾圧が開始されました。

橋本左内は、一橋派の中心人物として将軍継嗣問題への介入とがめられました。

井伊は、左内が主張する幕府の改造が、将軍と譜代大名によって運営される旧来の幕府体制を揺るがす危険な考えだと判断したのです。

結果、松平春嶽は隠居謹慎を命じられ、左内は遠島(追放刑)になるかと思われました。

ところが左内は、その後反対意見を押し切った井伊直弼によって処刑されたのです。

1859年10月7日、江戸伝馬町の牢屋敷で斬首となった橋本左内。

享年26でした。

 

左内が殺された「安政の大獄」とは何なのか

安政の大獄とは、1858年から翌年にかけて江戸幕府、主に大老・井伊直弼の専制に反対する尊皇攘夷派の親藩・外様・志士らを処断した過酷な政治弾圧のことです。

安政の大獄に至る経緯とその弾圧

1853年のペリーの黒船来航以来、幕府は外国からの圧力で外交方針を鎖国から転換する必要がありました。

朝廷の許可や諸侯の同意を得て政策を進めようとしますが、長く国政に携わらなかった朝廷は、海外事情に疎かったため、鎖国攘夷を求めました。

さらに第13代将軍・徳川家定の継嗣問題で、徳川斉昭の子・一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派と紀伊の徳川慶福を推す井伊直弼ら南紀派が幕府内で分裂。

南紀派で開国論者だった井伊直弼が1858年に大老に就任すると、朝廷の勅許(許可)を待たずに日米修好通商条約を調印し、紀伊の徳川慶福を次期将軍に決定します。

そして、井伊の専制に反発した親藩・外様大名・志士たちが次々と処断されたのです。

連座した者は100人以上、徳川斉昭、水戸藩主・徳川慶篤よしあつ、一橋慶喜らは蟄居ちっきょや謹慎となり、吉田松陰、橋本左内らが刑死しました。

 

左内の死後、井伊直弼は・・・

井伊直弼のあまりのやり方に、幕臣・水野忠徳ただのりのように幕府内の者でさえ

「井伊大老が橋本左内を殺したという一事をもって、徳川を滅ぼすに足る」

と怒るほどでした。

安政の大獄を断行した井伊直弼に対する人々の怒りは、1860年に桜田門外の変という形になって表れます。

江戸城桜田門へ登城中だった大老・井伊直弼は水戸浪士らの手で殺害されたのでした。

安政の大獄は「倒幕派弾圧」そのものではありませんが、それに反発することが倒幕運動へと繋がっていきました。

 

 

左内の友、西郷隆盛

左内は江戸で勉学に励んだ頃、水戸藩の藩政改革を成功させ幕政にも加わっていた名士・藤田東湖と交流しました。

その関係で東湖を慕っていた薩摩藩士・西郷隆盛とも親しくするようになったのです。

西郷は、

西郷
先輩としては藤田東湖に服し、同僚としては橋本左内を推す

と東湖と左内を高く評価していました。

西郷隆盛と橋本左内は、それぞれ薩摩藩主・島津斉彬なりあきらと福島藩主・松平春獄を主君に持ち、両主君に従って13代徳川家定の将軍継嗣問題で一橋慶喜を推した一橋派として幕閣対策、朝廷工作などで協力し合っています。

安政の大獄が始まると、西郷隆盛は九州へ逃げ鹿児島で入水自殺に失敗したあと奄美大島に身を隠します。

しかし1859年、左内は江戸で斬首となってしまいました。

左内の悲報を聞いた西郷隆盛がその時に大久保利通へ送った手紙です。

西郷
「橋本迄死刑に逢い候儀案外、悲憤千万堪え難き時世に御座候」

(橋本左内が死刑になるとは、あまりの悲しみと憤りに耐えられないほどの時代になってしまった)

のち1877年に西郷が西南戦争に敗れて自決をした時、彼の手文庫の中から左内の書状が出てきたそうです。

それは、かつて2人が「将軍継嗣問題」で共に活動した頃にやりとりしたものでした。

西郷は、友の手紙を最期のときまで手元に置いていたのでした。

 

橋本左内の墓所

福井市内にある左内公園

ここに橋本左内の銅像と彼の墓があります。

安政の大獄で処刑された左内は、一度は江戸の回向院に埋葬され、のちに関係者たちが左内の遺骸を墓石と共にこの地・橋本家菩提寺の善慶寺へ改葬。

その後、墓を残して寺は左内公園へと変わりました。

左内の墓の他には彼の両親の墓、松平春嶽寄進の灯籠、左内の『啓発録』の碑などがあります。

ちなみに橋本左内の先祖は豊臣秀吉の甥で戦国武将・青木俊矩としのりの流れとなるため、墓所には豊臣家の家紋である桐の紋が見られます。

<左内公園内 景岳先生(橋本左内)之墓:福井県福井市左内町7-27>

 

きょうのまとめ

橋本左内とは、

① 15歳で自分の生き方について考えた『啓発録』を著わした早熟の天才

② 激動の幕末日本から世界を見つめ「国家を治す医師」を目指した福井藩士

③ 13代将軍・徳川家定の継嗣問題で一橋派の中心人物として幕政改革を目指すが、安政の大獄で刑死した志士

でした。

 
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