横井小楠とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

熊本藩士でありながら、福井藩から招聘を受けて松平春嶽の政治顧問となった

横井小楠よこいしょうなん

多くの傑物が生まれた幕末・明治にあって、ひときわ高い評価を受けた彼はどんな人物だったのでしょうか。

 

横井小楠はどんな人?

プロフィール
横井小楠

横井小楠(文久元年(1861年)8月、鵜飼玉川撮影)
出典:Wikipedia

  • 出身地:肥後国(現在の熊本県)
  • 生年月日:1809年
  • 死亡年月日:1869年1月5日(享年61歳)
  • 幕末・明治期の先覚的な思想家で熊本藩士。松平春嶽の顧問として公武合体・開国貿易を提言し、のち明治政府の参与となったが暗殺された

 

横井小楠年表

年表

西暦(年齢)

1809年(1歳)8月13日、熊本城下で横井時南の次男として誕生

1837年(29歳)時習館の塾長に就任

1839年(31歳)江戸へ留学し、水戸藩士・藤田東湖と交流する。同年末、東湖による忘年会の帰りに泥酔して喧嘩騒ぎを起こす

1843年(35歳)自宅で私塾を開く(後に「小楠堂」となる)

1854年(46歳)兄が亡くなり横井家の家督を相続

1858年(50歳)福井藩から招聘を受ける

1860年(52歳)「国是三論」を書く

1861年(53歳)江戸で福井藩主松平春嶽と初対面する。この頃勝海舟とも交流。同年熊本へ帰郷するが禁猟区で発砲し謹慎処分となる

1862年(54歳)江戸で政事総裁職・松平春嶽の顧問として幕藩改革に着手。士道忘却事件で浪人となる

1865年(57歳)熊本の小楠を訪ねてきた坂本龍馬と「第二次長州征伐」について口論し物別れとなる

1868年(60歳)江戸幕府が滅亡。小楠は明治新政府の参与に就任

1869年(61歳)1月5日、京都で刺客による襲撃を受けて死亡

 

横井小楠の生涯

熊本藩士の横井小楠がその思想家としての本領を発揮できたのは、比較的遅い時期でした。

少年・青年時代と江戸遊学

1809年、横井小楠は肥後国(現熊本県)の熊本城下にて150石の熊本藩士横井時直の次男として誕生しました。

8歳で藩校の時習館に入校。

1837年には時習館居寮長(塾長)となりました。

1839年、30歳のときに藩命で江戸に遊学。儒学者として知られる林檉宇はやしていうの門下生となっています。

幕臣の川路聖謨かわじとしあきらや水戸藩士の藤田東湖ふじたとうこなど影響力のある人物たちとも親交を結びました。

同年末、藤田東湖が開いた忘年会の帰りに、さらに酒を飲んだ小楠は、藩外の者と喧嘩沙汰となります。

その一件で翌年2月には帰国命令を出され、帰藩してから70日間の謹慎処分になってしまいました。

謹慎中に朱子学の研究に没頭した小楠は、翌年頃から藩政改革を研究する藩士の集団・実学党を結成。

熊本藩の藩政改革を促す「時務策」を出しましたが、その主張は藩には取り上げられませんでした。

小楠の思想の伝播。福井藩からの招聘

小楠は1843年に自宅の一室で私塾を開きます。

のち「小楠堂」と命名されたこの塾に越前・福井藩士が学び、小楠の名前が越前福井藩に伝わります。

これが後年越前福井藩に出仕するきっかけとなりました。

小楠堂へは吉田松陰も足を運び、3日間小楠と意見を交しています。

1854年、小楠の兄・時明の病死に伴い小楠が家督を相続。

1855年5月には沼山津(現・熊本市東区沼山津)に転居して自宅を四時軒しじけんと命名しました。

ここへは、坂本龍馬、井上こわし由利公正ゆりきみまさらが訪問しています。

1858年3月、小楠は彼の評判を聞き及んでいた福井藩主・松平春嶽によって福井藩に招聘され、50人扶持の待遇で藩校明道館にて講義を行っています。

小楠は「国是三論」を献策し、以下のように福井藩の藩政改革を実行。

・倹約で得た資金を貿易や商品開発に投資し、利益を確保

・殖産興業としての養蚕を奨励。絹、生糸の増産に取り組む

・商人を集めて物産商会所を作り、生糸、茶、麻などを藩が長崎で販売して利益を農民に還元

これらの改革は福井藩に絶大な効果をもたらしました。

貿易の成功で福井藩の財政はたちまち潤い、かつてない蓄えを持ったのです。

松平春嶽のブレーンから浪人への転落

徳川慶喜

松平春嶽から厚く信頼された小楠は、1862年7月から徳川幕府の政事総裁職に就任した春嶽のアドバイザーとして幕政改革に臨みます。

小楠は、参勤交代の廃止、海軍の設立、人材登用などを盛り込んだ「国是七条」を提言。

大目付・岡部長常に招かれてその提言内容を説き、一橋邸では一橋慶喜(のちの徳川慶喜)に対面して幕政について意見を述べています。

この頃、福井藩邸で坂本龍馬とも意見を交換しました。

1862年12月、士道忘却事件が起きます。

江戸で小楠を含めた熊本藩士らが酒宴のあとに刺客に襲われ、その際に友人を見捨てて逃げたと誤解された小楠が、士道忘却だと非難されたのです。

熊本藩から家禄を召し上げられ、士籍剥奪処分を受けた小楠は浪人となってしまいました。

熊本から新政府へ登用、突然の死

1867年12月18日、大政奉還直後の朝廷から小楠の新政府への登用通知が京都の熊本藩邸に送られました。

熊本藩は家禄召し上げ、士籍剥奪状態の小楠を「病気辞退」として登用を断わります。

しかし、新政府の岩倉具視は重ねて小楠の上京を求め、やむを得ず熊本藩は小楠の処分を解いて上京を命じました。

晴れて小楠は4月から参与として政府に勤め始めたのです。

1869年1月5日午後、駕篭に乗っていた小楠は、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で十津川郷士ら6人組に襲撃されました。

小楠は応戦しましたが首を打たれて落命。

殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根のものでした。

新政府の参与となったばかりの時期に訪れた、あまりに急な小楠の死でした。

享年61。

 

横井小楠が提案した日本の未来

思想家であった横井小楠の功績は、現代の私たちの目には見えにくい部分がありますが、先覚者として政治家・活動家に多大な影響を与えました。

結局小楠は何をしたのか

小楠の功績としては以下が挙げられます。

・「国是三論」を福井藩に提案し実践した

・福井藩主松平春嶽の政治顧問として「国是七条」を草案し幕府の政策を導いた

・吉田松陰・藤田東湖・坂本龍馬・勝海舟・徳川慶喜らと交流し、その思想に影響を与えた

・明治新政府で参与として活動

小楠の「国是三論」「国是七条」とは

【国是三論】

1860年春、松平春嶽の跡を継いで新たに福井藩主となった茂昭もちあきに、3度目の招聘で福井にやって来ていた小楠が意見を求められました。

そこで、小楠が保守・進歩の派閥が対立していた福井藩の団結を求め、更なる藩改革について「天・富国」「地・強兵」「人・士道」を三つの柱にしてまとめたのがこの提言書です。

【国是七条】

政事総裁職を提示された前福井藩主・松平春嶽は、小楠を江戸に呼び寄せ、それについての彼の意見を求めました。

小楠は、政事総裁職を引き受けるべきだと主張。

その際に実行するべき幕府の政策を小楠が1862年に起草したものが「国是七条」です。

① 将軍は上洛して、これまでの無礼を帝にわびる
② 大名の参勤交代などの無駄を廃し、その費用を各藩の国力増強にあてる
③ 大名の妻を国に返す
④ 外様・譜代の区別なく、有能な人材を登用する
⑤ 自由な言論の道を開いて、天下と「公共の政」を行う
⑥ 海軍力の増強
⑦ 自由貿易をやめて官貿易とする

つまり、

「徳川中心とした政治、悪しき風習をやめる。多くの人の意見を採り入れ、欧米の脅威に対して海軍を増強しよう」

という考えです。

これをもって春嶽は総裁職就任を決意し、幕政改革に臨むこととなりました。

小楠は春嶽の助言者として彼を助けました。
 
こうした彼の先進的な考え方は、坂本龍馬の「船中八策*」もしくは「新政府綱領八策」、由利公正が起草した「五箇条の御誓文」にもその理念が盛り込まれていると考えられています。

(*原本のない「船中八策」は創作説あり)

 

横井小楠の墓所

横井小楠の墓碑は、京都市左京区にある天授庵にあります。

天授庵は、臨済宗南禅寺派大本山の南禅寺の塔頭たっちゅうです。

1339年に創建され、戦国期に衰退していたのを肥後の細川幽斎が1602年に再興。

それ以来、熊本藩(肥後藩)とゆかりのある寺院です。

横井小楠の墓をはじめ小楠の子孫の墓、墓所が朝廷から下賜されるに至る間での由来記、遭難当時の状況説明碑などがあります。

<横井小楠墓所 南禅寺塔頭 天授庵:京都府京都市左京区南禅寺福地町86-8>

 

きょうのまとめ

今回は、幕末維新で功績をのこした活動家・政治家たちの指針として目指す日本の姿を説いた思想家・政治家の横井小楠をご紹介しました。

横井小楠とは?

① 熊本藩士ながら福井藩に招聘を受けて藩政改革を実行した人物

② 江戸幕府政事総裁職・松平春嶽を助け、政府の基本方針「国是七条」を起草した思想家

③ 岩倉具視に高く評価され、明治新政府の参与となったが、事実無根の理由で京都で暗殺された人物

でした。

暗殺による小楠の死は大きな損失でしたが、彼の思想は日本の未来に受け継がれました。

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku