名もない立場から戦国大名にまで上り詰めた下克上大名
斎藤道三は美濃のマムシとあだ名されました。
主君や恩人を排してまで出世を追求した「悪人」との印象が強い道三ですが、
新資料の発見などにより解釈が変わりつつあります。
斎藤道三とはどんな人物だったのでしょうか。
斎藤道三も登場する明智光秀が主役の「麒麟がくる」がはじまりますね。
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斎藤道三はどんな人?
- 出身地:山城国(現在の京都府)西岡か?(諸説あり)
- 生年月日:1494年説、1504年説あり
- 死亡年月日:1556年(享年63歳)
- 下克上の限りを尽くし、名もない境遇から美濃の戦国大名にまで出世したが、家督を譲った息子と争い、敗死した
斎藤道三 年表
*道三の前半生は不明で不正確である。生年1494年説を採用した。
西暦(年齢)
1494年(1歳)山城乙訓郡西岡で生まれる
1504年(7歳)京の妙覚寺の僧侶・法蓮房となる
年代不明 還俗し、油売りの行商人として成功しその後武士となる
年代不明 美濃国守護土岐氏に仕える長井長弘の家臣となる
年代不明 長井氏家臣西村氏の家名を継いで西村勘九郎正利と名乗る
1527年(34歳)土岐氏の家督争いで土岐頼芸の守護就任に貢献
1530年(37歳)長井長弘を殺害して長井家を乗っ取り、長井新九郎規秀と名乗る
1538年(45歳)美濃守護代・斉藤利良の病死後、名跡を継いで斉藤新九郎利政と名乗る
1541年(48歳)土岐頼芸の弟・賴満を毒殺し、賴芸との中が険悪化する
1542年(49歳)土岐頼芸とその子を尾張国へ追放し、道三が美濃国主となる
1547年(54歳)加納口の戦いにおいて尾張国の織田信秀を撃退するが、後に和睦
1548年(55歳)娘の帰蝶を織田信秀の嫡子信長に嫁がせる
1554年(61歳)家督を嫡男・義龍に譲り、仏門に入って道三と号する
1556年(63歳)長良川の戦いで不和となった義龍に敗れて戦死(もしくは自害)
9度名前を変えた斎藤道三の生涯
道三というのは晩年に出家した際に名乗った号ですが、彼はランクアップするたびに9度も名前を変えています。
生きざまを表わす彼の名の変遷とともに、道三の生涯を追います。
少年・峰丸は油屋商人へ、そして武士へ
【峰丸】
道三の先祖は代々北面の武士の家系でしたが、道三の父親・松波左近将監基宗は、何らかの事情で浪人していました。
山城で生まれた道三の幼名は峰丸です。
【法蓮坊→松波庄五郎】
11歳に京都の妙覚寺で得度し、法蓮房という名の僧侶となりました。
秀才でしたが、なぜか還俗して松波庄五郎と名を変えました。
【山﨑屋庄五郎→西村勘九郎正利】
油問屋の娘と結婚し、油商人・山﨑屋庄五郎となりました。
漏斗を使わずに一文銭の穴に油を通して注ぐパフォーマンスが大受けして、油の行商は大成功。
ある時、土岐家の武士に
「その技の力を武道に注げば立派な武士になれるのに」
と言われたことから、商売を辞めて武芸に励みます。
槍と鉄砲の達人となった庄五郎は、僧侶時代の学友のつてで、美濃守護・土岐氏に仕える長井長弘への仕官がかなって、武士となりました。
その後長井氏家臣・西村氏の家名を継いで西村勘九郎正利を名乗ります。
恩を仇で返した男
【長井新九郎規秀】
立ち回りが上手かった勘九郎(道三)は、長井長弘が仕える守護・土岐家の次男だった土岐頼芸に取り入ります。
賴芸が家督争いで兄・政賴に破れると、1527年に政賴を急襲して彼を越前に追いやり、賴芸を守護に就かせました。
さらに、賴芸の信任を独り占めするために、賴芸の重臣・長井長弘、つまり道三が最初に仕官し世話になった恩人を邪魔者として討ったのです。
その後、長井家の跡を継いで長井新九郎規秀と名乗りました。
国盗り。マムシは主君を討った
【斎藤新九郎秀龍→新九郎利政】
1538年に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、新九郎(道三)はその名跡を継ぎ、斎藤新九郎秀龍と名乗り、のち斎藤新九郎利政と改名しました。
1541年に利政(道三)が主君・賴芸の弟を毒殺。
結果、賴芸との仲が険悪になると、賴芸とその子を尾張へ追放して美濃国主となったのです。
一時は土岐頼芸と賴純が朝倉氏や織田氏を巻き込む逆襲もありましたが、織田信秀の稲葉城攻めを撃退。
織田信秀との和議を結び、その証しとして1548年、娘の帰蝶を信秀の嫡子・織田信長に嫁がせたのです。
これにより織田家をバックにつけた斎藤利政(道三)は再度賴芸を尾張に追放し、完全に美濃国をものにしました。
息子に殺された斎藤道三
【斎藤道三】
1554年、道三は家督を嫡男・斎藤義龍へ譲り、出家して道三と号します。
しかし、道三は義龍よりも、2人の弟らを偏愛して義龍の廃嫡を考えました。
すると義龍は弟たちを殺害し、道三に対し挙兵しました。
旧土岐家の家臣たちは、道三の国盗り経緯に納得しておらず、ほとんどが義龍に味方します。
1万7千500の義龍軍に対して、たった2500兵しかなかった道三は、娘婿・信長による援軍の到着前に戦死したのでした。
63歳でした。
斎藤道三の生涯の新解釈
実は、上記の道三の下克上ストーリーは、覆される可能性があります。
油売りから始まった美濃の国盗りの話は、道三一代で成し遂げたのではなく、彼の父親との連係プレーによるものかもしれないのです。
1960年代に始まった『岐阜県史』編纂過程で発見された「六角承禎書写」という史料に、
2. 新左衛門尉は、西村と名乗って美濃で長井弥二郎という人物に仕えた
3. 頭角を現わした新左衛門尉は、長井の名字を称し長井新左衛門尉となった
4. 道三の代で惣領を討ち、職を奪って斎藤を名乗った
5. 対立の結果、道三は息子・義龍に討たれた
とあり、これを糸口に道三の本当の姿が、今後解明されるかもしれません。
斎藤道三の墓所
道三が息子と対立し、殺された理由
道三が嫡男・義龍と対立したのは、
「義龍が彼の実の子ではなく、実子の孫四郎や喜平次らを偏愛したから」
と言われています。
義龍の母は道三の側室・深芳野です。
彼女は、もともと道三の主君だった土岐頼芸の愛妾でした。
のち賴芸は彼女を道三に与えたのですが、道三はその時、彼女が既に賴芸の子供を懐妊していたのを承知で側室にしたと言われます。
しかし正室との実子が生まれるとそちらを可愛がり、義龍と対立したのでしょう。
彼らの親子関係が賴芸の旧家臣たちも周知の事実だったとすれば、長良川の戦いで多くの家臣たちが道三を嫌い、義龍に味方したことも理解できます。
彼らの本来の主君・賴芸を追い出した道三ではなく、賴芸の息子・義龍を助けたかったわけです。
そして義龍は道三を討ちました。
墓所
道三の墓所として伝えられる二箇所をご紹介します。
正式名称は鷺林山常在寺)です。
1450年に土岐家守護代・斎藤妙椿が建立しました。
道三・義龍・龍興3代の菩提寺となっています。
道三の肖像画や史料などと共に、境内に斎藤道三の墓と斎藤家五輪塔があります。
<常在寺:岐阜県岐阜市梶川町9>
長良川の戦いで敗死した道三の遺体は、崇福寺の西南に埋葬されました。
のちに長良川の氾濫で流されたので、1837年に斎藤家菩提寺・常在寺の日椿商人が、現在の地に碑を建てたということです。
最後の戦いの経緯を記した案内板や道三の墓もあります。
<岐阜市指定史跡・道三塚:岐阜県岐阜市長良福光2494>
きょうのまとめ
今回は、下克上の代名詞・斎藤道三の生涯をご紹介しました。
斎藤道三とは、
① 僧侶から身を興し、美濃国主と成り上がった戦国大名
② 出世のためには謀略を尽くし、恩人や主君を排除するマムシとよばれた男
③ 前半生に謎が多く、一代で国盗りしたというのが誤解の可能性がある人物
でした。
新発見があるたびに私たちの歴史認識は書き換えられます。
今後、「悪人」「謀将」「マムシ」と呼ばれる斎藤道三のイメージが変わるかもしれませんね。
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