スレイマン1世とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

オスマン帝国を繁栄に導きその最盛期を築いた皇帝、

スレイマン1世

若くして即位したスルタンは、長期にわたる在位中に様々なことを成し遂げ、歴史に名を刻むこととなりました。

スレイマン1世とは一体、どの様な人物だったのでしょうか。

今回は彼の生涯について、功績やエピソードと共に見ていきましょう。

 

スレイマン1世はどんな人?

プロフィール
スレイマン1世

スレイマン1世

  • 出身地:オスマン帝国(現在のトルコ)
  • 生年月日:1494年11月6日
  • 死亡年月日:1566年9月6日(享年71歳)
  • オスマン帝国第10代皇帝。帝国を最盛期に導いたスルタン。立法者。

 

スレイマン1世 年表

年表

西暦(年齢)

1494年(0歳)第9代皇帝、セリム1世の息子として誕生。

1520年(25歳)第10代皇帝に即位。

1521年(26歳)初の遠征でベオグラードを攻略。

1523年(28歳)ロードス島から聖ヨハネ騎士団を放逐。

1525年(30歳)ハプスブルク家に対抗するため、フランス王フランソワ1世と接近。

1526年(31歳)「モハーチの戦い」でハンガリーを破る。

1529年(34歳)12万の大軍と共にウィーンを包囲。

1534年(39歳)バグダードに遠征。イラク、アゼルバイジャンからサファーヴィー朝勢力を放逐。ヒュッレムことロクセラーナを奴隷身分から解放し、結婚。

1535年(40歳)フランスと連携を結び、その恩恵として通商特権を与える。

1536年(41歳)大宰相イブラヒムを処刑。

1538年(43歳)インド洋に艦隊を派遣しイエメンを占領。「プレヴェザの海戦」で連合軍に勝利し地中海を制覇。

1550年(55歳)ミマーリ・シナンに対し、スレイマン・モスクの建設を指示。

1553年(58歳)蜂起を恐れ、第一夫人との長男ムスタファを処刑。

1557年(62歳)イスタンブールにスレイマン・モスク完成。

1566年(71歳)ウィーン遠征の最中、ハンガリーで死去。

 

スレイマン1世の生涯

ここからは早速、スレイマン1世の生涯について功績と共にご紹介していきます。

唯一の男児

1494年、オスマン帝国の次期後継者として誕生したスレイマン1世。

父親にしてスルタン(トルコの皇帝のこと)のセリム1世にとって唯一の男児だった彼は、若い頃から

・各地の太守を務める

・父王の遠征中は国の警備を任される

など、着々と次期スルタンへの道を歩んでいました。

そしてセリム1世が若くして亡くなると、スレイマン1世は25歳にしてスルタンの座に就いたのです。

遠征による帝国繁栄

スレイマン1世の功績でまず最初に挙げられるのが、繰り返し行われた遠征について。

彼は即位してから46年という長期にわたる在位期間の内で、

・ヨーロッパへ10回

・東方へ3回

計13回の対外遠征を行いました。

この遠征での軍事的成功により、彼は自身の名を歴史に刻むと共に、オスマン帝国を最盛期へと導いていったのです。

まず、スレイマン1世はスルタンに即位した翌年の1521年、ベオグラードを抑えてハンガリー進出への足掛かりを掴みます。

このベオグラードは、長年オスマン帝国のヨーロッパ圏進出を阻んでいた地域でした。

彼はそこを2ヵ月で攻略し、ヨーロッパの人々に衝撃を与えます。

そして翌年には、聖ヨハネ騎士団の本拠地であったロードス島の攻略にも成功。

ムスリム(イスラム教徒のこと)の商船などを襲っていたこのキリスト教勢力に勝利し、島を抑えたことで、エジプトと帝国をつなぐ貿易ルートを確実に確保しました。

そして1526年には先に築いた基盤をもとにハンガリー遠征を行い、見事勝利を収めています。

その後のハンガリー王位を巡る問題ではオーストリアと対立し、1529年には12万の大軍を連れてウィーンを包囲。

しかし遠征に向かう途中、悪天候などのトラブルに見舞われたことで到着が大幅に遅れ、それが原因で最終的には遠征物資が不足。

結果的に遠征は失敗に終わりましたが、ウィーンがオスマン帝国に攻め込まれたという事実は、ヨーロッパにまたしても脅威を感じさせることになりました。

その後もスレイマン1世は、

・バグダード、イラク、アゼルバイジャンなどの中東遠征

・イエメンを占領し紅海、ペルシャ湾の航路を独占

・「プレヴェザの海戦」でハプスブルク帝国、ローマ教皇、ヴェネツィア共和国を破り東地中海を制覇

等々、その度重なる遠征事業によって数々の功績を収めていきました。

カピチュレーションの先駆け

13回にわたる遠征とその功績により、ヨーロッパ諸国を中心に広く畏怖の対象となったスレイマン1世。

彼は自ら及びオスマン帝国を世界の王と称し、他国を平定しようとしていました。

「世界の王」を自負しているわけですから、当然他国の君主たちを下に見ていたのです。

しかしそんな中でも唯一、同等の存在として関係を築いた国がフランスでした。

オスマン帝国にとってフランスは、ハプスブルク家という共通の敵を持つ国だったのです。

両国は1525年頃から接近し、1535年には連携関係を結びます。

そしてスレイマン1世の息子の代にはフランスが協力してくれる見返りとして、

・国内の安全保障

・通商特権

・領事裁判権

を与えます。

これはカピチュレーションと呼ばれ、皮肉にも18世紀以降オスマン帝国が力を失っていく要因にもつながりました。

カヌーニーとしての顔

スレイマン1世の功績は対外面だけではありません。

彼は内政において「カヌーニー」としても有名です。

これは立法者という意味で、彼は主に統治の後期にかけてオスマン帝国内の支配機構を整備していきます。

例えば、

・検地の実施

・租税制度

・行政機関

・軍事組織

などがその対象で、これらを整備することによって中央集権的な支配体制を強めていきました。

さらにスレイマン1世は、1550年にスレイマン・モスクの建設を指示。

これはビザンツ建築を代表するキリスト教の大聖堂、ハギア・ソフィア聖堂をモデルにしています。

イスタンブールに建てられたその巨大なモスクには、

・商店

・貧困者救済施設

・学校

・浴場

などが揃っていました。

 

2人の寵人

ここではスレイマン1世の人物像をもう少し掘り下げるために、彼の周辺の人物について見ていきましょう。

スレイマン1世の生涯を見ていくうえで、必ずセットで語られる人物が2人います。

それが、大宰相イブラヒム寵姫ヒュッレムです。

実はこの二人、元々オスマン帝国に奴隷の身として捕らえられ、売られてきた外国人なのです。

以下でそれぞれについてスレイマン1世の立場から簡単にまとめると、

イブラヒム
・セルビア系ヴェネツィア人

・齢が近く、少年時代の彼に献上された

・容姿端麗で聡明かつ有能なことから寵臣として信頼

・パシャ(大宰相)に抜擢

・統治前半の遠征時代に重用

ヒュッレム
・ウクライナ出身

・常識に囚われない姿勢を気に入り寵愛(5男1女を授かる)

・奴隷の身分を解いて正式に結婚

・統治後半の内政尽力時に支えとなる

・ヨーロッパではロクセラーナの名で知られる

といった特徴が挙げられます。

伝統を重んじる当時のオスマン帝国において、奴隷身分の人間をここまで重宝するスレイマン1世の行動はかなり斬新だったことでしょう。

しかし驚くべきことに、彼はヒュッレムと正式に結婚した2年後、イブラヒムを処刑しているのです。

確かな要因は明らかになっていませんが、後継者を巡ってイブラヒムとヒュッレムの意見が対立していたことと関係があるようです。

 

きょうのまとめ

今回は、スレイマン1世の生涯について、功績やエピソードを交えながらご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、スレイマン1世とはどの様な人物だったのか簡単にまとめると

① 16世紀、オスマン帝国第10代皇帝。

② 繰り返し行った対外遠征と内政の改革により、帝国を繁栄させ最盛期へと導いた。

③ 奴隷身分出身の人物を重用するなど、帝国内の伝統を覆すことが多かった。

スレイマン1世亡き後、スルタンに即位したのはヒュッレムとの次男、セリム2世でした。

複雑な後継者争いの末に即位した彼以外、他の兄弟は皆死んでしまったのです。

スレイマン1世自身が後継者争いを経験しなかったことが、思わぬかたちで悲劇を生むこととなりました。

 
目次に戻る ▶▶

 

その他の世界の偉人ははこちらから

関連記事 >>>> 「世界の偉人一覧」

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

two × 3 =