関ヶ原の戦いで負けた方、というイメージの強い
石田三成。
頭が固かった、性格が悪かった、人望がなかったなどといろいろ言われていた人物ですが、最近では忠義を重んじる男気のある人物だった、などその性格が見直されています。
そんな彼を表わした名言をご紹介しましょう。
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卑怯と後悔を嫌った石田三成の名言
三成の名言は数多く残されています。
ここに挙げた以外の名言を含め、いずれも一貫性のある毅然とした彼の性格が表われる言葉が残されています。
残すは盗なり
「残すは盗なり。使い過ごして借銭するは愚人でなり。常に奉公人は、主君より取物を遣ひ合せて、残すべからず。残すは盗なり。つかひ過ごして借銭するは愚人なり」
「主君から頂く俸禄は、賢く使い切って奉公するのが家臣というものであり、出費を惜しんで貯め込んだり、使いすぎて借金をしたりするのは、愚かな者のすることだ」という意味です。
三成は自分の俸禄の取り分の大半を失ってでも島左近や渡辺勘兵衛など、優秀な武将を積極的に登用しました。
そのため、手元には金が残っておらず、かなり困窮した生活をしていたと伝わっています。
関ヶ原の合戦のあとに徳川方が石田三成の居城・佐和山城を攻め落とした時に入城すると、城には金目の物などはほとんど残っていませんでした。
三成が言っていたことは本当だったのです。
裏切りしたるは武将の恥辱
「汝に二心あるを知らざりしは愚かなり。されど、義を捨て人を欺きて、裏切したるは、武将の恥辱、末の世までも語り伝へて笑うべし」
「おまえに二心(ふたごころ/裏切りの心)あることを知らなかったのは、私が愚かだった。だが、義を捨てて人を欺き、裏切ったことは武将としての恥辱だ。末代に渡って語り継がれ、笑い者になればよい」という意味です。
関ヶ原合戦で三成の味方だったはずの小早川秀秋は、直前になって徳川に寝返りました。
そんな秀秋が、敗戦して東軍に捕えられた三成の様子を見物に来たときに、三成が彼に対して言った言葉です。
小早川秀秋を巡る合戦時の事情はどうあれ、「寝返った」感のぬぐえない彼は、現代に至っても裏切り者だと言われ続けています。
負けても天下分け目の合戦を恥じることはない
「われ、大軍を率い、天下わけ目の軍しけることは、天地やぶれざる間は、かくれあらじ、ちつとも心にはづる事はし」
「大軍を率い、天下分け目の大合戦を行なったことは、天地が裂けるでもない限りは隠れようもない事実だ。少しも心に恥じることはない」という意味です。
負けず嫌いの気持ちが表われており、誰かに告げると同時に、どこか自分に言い聞かせているようにも聞こえる言葉です。
関ヶ原合戦の敗北後、捕えられて京都の六条河原に引き出された三成が語った言葉だとされています。
心境があふれる三成辞世の句
「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と とともに消えゆく我が身なりけり」
「あの芦の間にともっているかがり火もじきに消えていく。それと同じように自分の命ももうすぐ消えていくのだ」 という意味です。
琵琶湖東北端にある薩摩江と呼ばれる場所で、三成が辞世の句として詠んだものと言われています。
死への覚悟を決めながらも、使命を達成できないうちに死んでしまう自分を詠みました。
生き方に後悔していないと別に述べる一方で、忠義を尽くして豊臣家を守ろうとしながらもそれがかなわなかったことを悔やむように聞こえる歌です。
他の名言の中にある強さとは違い、三成の複雑な心境を表わす哀しい歌です。
きょうのまとめ
石田三成の名言と辞世を見ていくと、彼の豊臣家に対する忠義の心と、不屈の精神がよく表われています。
他にも名言を残している三成ですが、やはり関ヶ原の合戦に負け、死を迎えるまでに言い残した彼の言葉は重く、心情が強く表われている名言として今に伝わります。
簡単なまとめ
① 石田三成は自分の言葉と行動にブレがなかった
② 戦に負けた将であることを悔いることはなかった
③ しかし、心の底では使命を達成できなかったことを口惜しく思う気持ちがあった
豊臣家のための忠義の気持ちが人一倍強かった石田三成。
そのかたくなまでの忠義が他の武将から敬遠されたところもあったかもしれません。
それでも三成は彼の言葉通り前を向いて戦い抜こうとした強さのある人物でした。
石田三成の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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