関羽雲長はどんな最後を迎えた?自尊心の強さが災いに…

 

劉備、張飛と義兄弟の契りを交わし、生涯に渡ってその忠義を尽くした

関羽雲長

義理堅さを物語る逸話がいくつも残されており、まさに男らしさの象徴のような人物なのですが、関羽には欠点がありました。

その欠点を突かれたことをきっかけに、彼はあっけない最後を迎えることになります。

関羽は一体どんな最後を迎えたのか、また何が彼を死に至らしめたのかについて、以下より迫っていきましょう。

 

荊州(けいしゅう)南部を巡る孫権との仲違い

孫権からの政略結婚の申し出を拒否

214年のこと、荊州は北部を曹操、南部西側を劉備、南部東側を孫権が陣取り、三大勢力がぶつかり合う激戦区となっていました。

そして孫権は赤壁の戦い以来、劉備との同盟を維持しつつも、密かに荊州の領土拡大を目論んでいました。

しかし領土を拡大しようにも、劉備領側の指揮を執っている関羽の統治には隙がなく、孫権領側の指揮を執っていた呂蒙(りょもう)もどうしたものかと考えあぐねます。

これに対して関羽と親密になることで油断を誘おうと策を講じた孫権は、関羽の娘と自分の子に結婚の話を持ち掛けました。

しかし孫権は劉備と同盟を結びながらも一度は裏切った経緯のある男です。

劉備に絶対的な忠義を誓っている関羽は、この話に聞く耳を持ちませんでした。

縁談を断られた孫権は怒り、これをきっかけに両者の仲はこじれていくことになります。

 

曹操と孫権に挟み撃ちにされる関羽

孫権の思惑を逆手に取った司馬懿(しばい)、蒋済(しょうさい)の妙案

218年、219年のこと、関羽は荊州の曹操領、樊城(はんじょう)へと攻め込み、曹仁、于禁(うきん)を圧倒。

于禁は七軍にも渡る大軍を率いて曹仁の援護に駆け付けましたが、大洪水に見舞われ軍が水没したため、船団を用いていた関羽に有利を取られてしまいます。

これによって関羽は樊城を完全に包囲。

関羽の勢いに押された曹操は、都を他の地に移すことも考えます。

しかし樊城を捨てて逃げようと考えた曹操に待ったをかけたのは、部下の司馬懿と蒋済でした。

この二人は荊州南部東側を領有している孫権に協力を持ち掛け、関羽を背後から攻撃すれば良いと提案します。

孫権は関羽のことをよく思っていない上、前述の通り荊州の領土をさらに広げたいと思っていました。

それを考えればこれは妙案です。

関羽を討った後、荊州南部を孫権が領有することを条件に、曹操と孫権は密かに手を結ぶことになります。

関羽の自尊心が強すぎる性格を利用した陸遜(りくそん)

この策を考えた司馬懿と蒋済も智恵が回りますが、さらに関羽の性格を利用し、罠にはめた策士は呂蒙に代わり孫権領を任されていた陸遜でした。

関羽は呂蒙こそ腕の立つ武将として警戒していましたが、新しく赴任してきた陸遜はそれに比べると無名です。

さらに陸遜は呂蒙から関羽の性格の欠点を聞いていました。

関羽は部下にとっては面倒見の良い指揮官でしたが、自尊心が高く、同等か格上の人物に対しては「自分の方が優れている」と意地を張るクセがあったのです。

陸遜は荊州の孫権領を任されているわけですから、地位としては関羽と同等。

その陸遜が下手に出れば関羽は「よくわかっているじゃないか!」と油断するはずだと呂蒙から助言を得ていたのです。

この助言に乗り、陸遜は自身の力量は隠して関羽を褒め称える手紙を出します。

「自分は力がないのに大役を任されてしまいました。しかし優れた力を持った方が隣におられるということで、すべて頼らせていただきたいと思っております」といった具合です。

まんまと気を良くした関羽は孫権領を警戒していた兵を曹操領側へ集中させました。

これによって孫権領への警戒は手薄になってしまい、荊州の劉備領は陸遜に攻め込まれてしまうことになります。

関羽の最後

関羽が失態に気付いたのは、樊城の戦線にてでした。

曹操の部下、董昭(とうしょう)の策により、戦場全体に曹操と孫権が同盟を結んだことが伝えられたのです。

これによって樊城を攻めるどころではなくなってしまった関羽は包囲を解き、自陣へと引き返しますが、時すでに遅し。

劉備領は陸遜によって攻め入られ、関羽の部下や妻子たちが捕虜にされてしまっていました。

これを知った関羽の部下の大半は戦意を喪失し、降伏してしまいます。

そして孫権までもが自陣の中心地である江陵(こうりょう)に攻めてきたことを知ると、関羽は西の麦城(ばくじょう)を頼って逃亡しました。

その後も降伏するふりをして逃走を繰り返しますが、最後は退路を断たれ、孫権の部下、臨沮(りんしょ)によって息子の関平と共に処刑されています。

後に関羽のは曹操の元へ送られ、曹操は敬意を持ってそれを洛陽の地に葬りました。

同じように孫権も関羽の胴体当陽の地に葬ったといいます。

曹操と孫権の二人が手を組むことでやっと討つことができた関羽。

死後のこの振る舞いは「敵将ながらあっぱれな男だった」とでもいうかのようですね。

 

きょうのまとめ

圧倒的な強さを誇っていた関羽雲長。

しかし最後は自尊心が強すぎるという欠点を突かれ、追い詰められることとなってしまいました。

記事の内容を簡単にまとめると…

① 孫権は領土を広げたいと同時に、政略結婚を断った関羽を良く思っていなかった

② 曹操は関羽のあまりの勢いに、樊城を捨てて逃げることまで考えていた

③ 最後は油断の隙を突かれ、同盟を組んだ曹操と孫権に挟み撃ちにされる

といったところでしょうか。

例えば陸遜の手紙に踊らされることがなければ、関羽はこの局面も乗り越えていたでしょう。

しかし三国時代の武将の多くは、そういった人間くささを感じさせる逸話があるのも魅力の一つですね。

 

関羽雲長の年表を含む【完全版まとめ】はこちらをどうぞ。
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