1180年の以仁王の令旨に呼応して各地で源氏が動き出し、
最初に京に入って平氏を追い出したのは木曽義仲(源義仲)軍。
義仲の軍は、数ある源氏の中でも特に武将と家臣が「情」という強力な絆で結ばれた軍でした。
ここでは彼の団結力あふれる家臣たちの中で中心となった四天王と、
もう一人頭のキレる人物をご紹介します。
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木曽義仲と家族同然の腹心たち
2歳だった義仲は父親・義賢を大蔵合戦で失ったのち、信濃国に逃れ、中原兼遠の庇護を受けて育ちました。
義仲の基盤となったのは、この信濃の中原家です。
兼遠によって大切に育てられ、彼の実の子供たちと一緒に信濃の野山で駆け回って育ったことが義仲と家族同然の家臣たちとの強力な関係のベースになります。
義仲四天王
義仲四天王は、義仲と共に木曽から京へ駆け上った、青春や命運全てを賭けた仲間たちでした。
そして義仲が敗れ、討ち死にしたとき4人もこの世を去ったのです。
今井兼平(いまいかねひら/1152~1184年)
正式な名前は中原兼平。
義仲を育てた中原兼遠の息子、つまり義仲の乳母子です。
義仲とは年もそう変わらず、子供の頃から一緒に育った兄弟のような、親友のような仲。
もう一人の四天王メンバー・樋口兼光は彼の兄、そして義仲が愛したという女武者・巴御前は彼の妹です。
義仲と共に戦い、鎌倉軍に追われて敗走する義仲に最後まで付き従った兼平。
1184年、琵琶湖畔の粟津で討ち死にした義仲を見届けると、すぐに後を追って壮絶な自害をしました。
樋口兼光(ひぐちかねみつ/不詳~1184年)
樋口兼光は今井兼平の兄で、同じく義仲の乳母子です。
正式な名前は中原兼光。
1183年に後白河法皇の命令により、義仲が四国の水島の戦いに向かったとき、留守になる京を託されたのが兼光でした。
義仲が戦死した時に一緒にいなかったのは、またしても彼が任されて別行動で義仲に離反した源行家・源義資討伐の戦いの最中だったからです。
その義仲の死後、兼光は義経軍に生け捕られ、斬首となりました。
根井行親(ねのいゆきちか/不詳~1184年)
根井行親は、1156年の保元の乱では源義朝に従って活躍した猛者です。
義仲を匿っていた中原兼遠が平家に追求されたとき、出家をして義仲に迷惑が及ばないようにすると同時に、この行親に義仲の将来を託しました。
以降、根井一族が義仲の天下取りに命を賭けたのです。
1184年の宇治川の戦いで戦死。
楯親忠(たてちかただ/不詳~1184年)
楯親忠は、根井行親の息子です。
親子で義仲に勤め、さまざまな戦いに参戦します。
父親と共に、死ぬと知りながら宇治川の合戦に参戦し、たった300余騎で源義経軍2万5千騎と戦いました。
六条河原で討ち取られたと言われます。
義仲軍の頭脳となった学僧参謀
「情」という義仲と義仲四天王の間の絆とはひと味違って、義仲にはここにもう一人頼れる男がいました。
覚明(かくめい/生没年未詳)
覚明は、謎の僧です。
元は藤原氏の一族と言われ、学才文才がありながら、なかなか過激な人物です。
1180年に平氏打倒を宣言し、園城寺に逃れた以仁王が興福寺に協力を求めた時、興福寺を代表した書状を書いたのは覚明です。
その内容が平清盛を激しく罵倒するものだったため平氏政権に追われることに。
そして北へ逃れて義仲の右筆(秘書)となりました。
彼が書いた倶利伽羅峠の合戦前の勝利祈願文、義仲軍が入京する直前に比叡山延暦寺に味方するよう求める牒状(訴状)は、知性あふれる美しい文として評価されています。
筆一本で比叡山の信頼を勝ち取り、義仲軍が戦わずして都に入れたのは彼のおかげ。
しかし、その後の覚明の消息ははっきりしません。
実は、彼の『平家物語』制作への関与も指摘されています。
義仲の討ち死に場面『木曽最期』の部分は、『平家物語』の中でも有名な悲しいクライマックスのシーンです。
もしかしたら、覚明が義仲への思いを物語りに残そうとしたのかも・・・と考えるのもロマンのある想像です。
きょうのまとめ
木曽義仲と四天王についていかがでしたでしょうか。
簡単にまとめると、
① 義仲と四天王は家族同然の強力な関係を築く
② 四天王とは、今井兼平、樋口兼光、根井行親、楯親忠
③ 謎の僧侶、覚明が右筆として義仲を支える
「肉体派」の四天王に加えて、鋭い「知性派」として義仲を別の方向から支えた覚明。
この両輪があってこそ、義仲は短い間ではありましたが天下を取ることができたのでした。
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