木曽義仲の5人の子供と子孫の行方

 

木曽義仲が琵琶湖のほとりで討ち死にした後、義仲の近親者たちにも命の危険が及ぶようになります。

記録は明確ではありませんが、義仲には4人の息子と1人の娘がいたとされています。

彼ら、そしてその子孫たちはどんな運命を辿ったのでしょうか。

 

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嫡男 源義高のその後

木曾義仲像(徳音寺所蔵)
出典:Wikipedia

源頼朝によって追放された叔父たちを庇護したことが原因で、頼朝と険悪な仲になった義仲は、その和解策として息子の義高よしたかを人質とし頼朝に差し出していました。

義仲が敗死したとき、義高は12歳で、7歳の頼朝の長女大姫と婚約していました。

頼朝の冷酷

かつて父義朝が平治の乱に負け、伊豆で流人生活していた源頼朝は、それでも命があったからこそ打倒平氏のために挙兵することができたことをよく分かっていました。

だからこそ、義仲が粟津の戦いで討ち死にした後、頼朝は成長してからの義高の復讐を恐れ、殺害を決めます。

清水冠者と呼ばれた義高は、自分の命の危険を知ると頼朝の屋敷から脱出。

一説には、頼朝が12歳の罪のない少年をただ殺すのは気が咎めるため、わざと義高の暗殺計画をリークし、彼が逃げ出したところで「頼朝への謀反の疑いがある」という理由で殺そうとしたとのことです。

義高の最期と大姫

義高の身代わりは側近の海野幸氏うんのゆきうじが務め、女装した義高の鎌倉脱出はその日の晩にはばれてしまいました。

激昂した頼朝は、義高追討の命をだし、入間川いるまがわ義高を討ち取ると、家臣が首だけを鎌倉に持って帰りました。

義高の許嫁だった大姫は哀しみのあまり病に陥ります。

彼女の母・北条政子

「討ち取った者の配慮が足りないからこうなった!」

と頼朝に迫り、義高を殺害した武士をさらし首にします。

大姫は頼朝が持ってくる別の縁談を断り続け、義高への供養や祈祷の甲斐なく、10年も床に伏せたあげくに20歳で亡くなりました。

政権確立を目指すあまり、源頼朝は敵の命だけでなく我が子の命さえ奪ってしまったのです。

 

その他の義仲の子供たちのその後

義高以外の義仲の子供たちも追われました。

次男 源義重

義仲が栗津ケ原(大津市)で討死した時、義仲の右筆ゆうひつ(秘書)だった覚明が義重と武士36名と一緒に広島の向島に隠れて再興を目指しました。

覚明は、約20年後に長野に帰りました。

・義重と36名の武士はそのまま向島で生活して子孫が残っている

・のちに義重が信濃に戻り、仁科氏の祖となった

とも言われています。

三男 源義基

義基は存在が確実とされている息子です。

後に親鸞の弟子となり、越後国に移り長称寺を開基しました。

移転を繰り返した長称寺ですが、今でも寺宝として義仲の太刀、義基の懐刀などが残っています。

義基の子孫は後の木曽家に続いています。

紆余曲折ありながらも、子孫には伊予松山藩主の右筆やのち関ヶ原の合戦での功績で幕府旗本尾張藩重臣として活躍する者がいました。

四男 源義宗(基宗)

義仲の死後、ともえ(※)が信濃で出産した息子だとの話しがあります。

※ 巴:木曽四天王と共に、義仲に付き従った女武将

別の伝承では、義仲の遺児である「細野四郎」という者が頼朝を討とうと試みたことがあり、結局頼朝は細野四郎を許して、湯本の姓を与え、群馬北部の地頭に任命したと言われています。

「四郎」は「四男」の意味ですから、この人物が義宗だったかもしれません。

上野国の沼田氏となったとも、そののち木曽に戻って木曽氏となったともいわれますが、いずれも明確ではありません。

鞠子

義仲と正室である藤原伊子の間にあった一女だと言われていますが、詳細は分かっていません。

 

その他の子孫

木曽家の初代当主だと言われる義仲の三男義基から義重・基家と続き、その後沼田姓木曽姓に分れていったようです。

伝承によれば南北朝時代には足利尊氏の北朝方として木曽氏が活躍し、その後江戸時代まで家系は続きました。

江戸時代には失明しながらも鍼術で名声を得た幕府奥医師(将軍とその家族の意思)の葦原検校あしはらけんぎょうがその血を継いでいると言われます。

江戸幕府が無くなった後も、養子を取りながらも木曽氏は続き、現在も群馬県渋川市に子孫がいます。

その他にも、木曽氏を名乗る一族はありますが、木曽義仲に続く血筋であるかどうかは明確ではありません。

 

きょうのまとめ

義仲の子供たちのその後と子孫についてご紹介いたしました。

今回の簡単なまとめ

① 義仲の嫡男義高は源頼朝の手の者に殺害され、その哀しみで婚約者の大姫も亡くなった

② 三男の義基は親鸞の弟子となり、長称寺を開基した

③ 次男は信濃で仁科氏になり、四男義宗は沼田氏、木曽氏になった可能性があるが、義仲に直接繋がる子孫の存在として明確ではない

江戸時代に至るまで、源氏ブランドにあやかろうとした一族は少なくありません。

チャンスがあれば本来の素性を捨ててでも源氏を表明して立場を有利にしようとした者たちは多かったのです。

いずれにしても、敗死した武将の子孫は、各地に子孫が散らばっている可能性はあるものの、残念ながらそれを辿ることは非常に困難です。

 
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku