政治家向きではない性格だった木曽義仲

 

木曽義仲は1183年に入京し、平氏を追放しますが、木曽の山育ちの彼は京の公家たちにはひどく不人気でした。

何か義仲の性格に問題でもあったのでしょうか?

 

木曽山育ちの義仲

2歳で父親の源義賢(みなもとのよしかた)を亡くした駒王丸(のちの木曽義仲)。

信濃国木曽の中原兼遠(なかはらかねとお)に預けられ、乳母子である兼遠の子供たちと共にのびのびと養育されました。

野山を駆けまわり、川で泳ぎ、馬で遠出するかたわら勉学にも励み、八幡太郎義家の子孫として恥ずかしくない文武に優れた男子となったのです。

そして、13歳になると元服して源義仲と名乗りました。

 

「敵は平氏、頼朝とは敵対しない」義仲

義仲はどうやら自分の父親を殺した従兄・源義平の弟である源頼朝と衝突をしないよう配慮していたようです。

そう考えられる理由は、

・義仲は、あえて源頼朝や彼と組んでいた武田信光ら甲斐源氏との衝突を避けるために、彼らの勢力が浸透していない北陸を選んで勢力を強めた

・頼朝に追われた叔父志田義広(しだよしひろ)と源行家(みなもとのゆきいえ)を庇護したため、頼朝と武力衝突寸前に。しかし、和議を成立させるため嫡男義高を人質として鎌倉の頼朝へ送った

これは、義仲の「敵は平氏」「遺恨は抑えて頼朝とは敵対しない」という少なくともその時点での彼の考えの現れだったのです。

 

入京後の行動にみる義仲軍と義仲の性格

その後、義仲軍は1183年の倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京。

平家の専横度重なる飢饉治安の悪い都に辟易していた京の貴族たちは、義仲に期待していました。

しかし、その期待はすぐに失望へと変わります。

飢饉と義仲軍の横暴

その頃の京は約15万人の人口のうち、4万人の餓死者が出たという飢饉で荒廃していました。

義仲軍の入京は食糧事情から言えば最悪のタイミングでした。

義仲の兵は思うように食料を補給できず、狼藉を始めます。

・民家への押し入り

・略奪

・畑や田んぼの作物を馬のエサにする

・追いはぎ

都はますます混乱します。

人々は「平家の方がまだよかった」と思い、義仲軍の評判は急降下しました。

美男だけど田舎者

義仲軍の悪評は、そのまま義仲評へとつながっていきます。

彼に対する『源平盛衰記』の評価は、

「眉目形はきよげにて美男なりけれども、堅固の田舎人にて、あさましく頑なにおかしかりけり」

「色白う眉目は好い男にて有りけれども立ち居振る舞いの無骨さ、言いたる詞続きの頑ななる事限りなし」

「頑な」とは「無骨」という意味です。

つまり美男なんだけど無骨な田舎者、といったところ。

公家たちの笑い者に

また、後白河法皇を始めとした公家達が義仲を馬鹿にしていた様子『平家物語』の中に“滑稽ばなし”として登場しています。

義仲は例えば、

・貴族の装束と烏帽子が全く似合わず、裾さばきが全然サマになっていない

・牛車の乗り方も知らない義仲は、意地悪な牛飼いのせいで荒い牛のひく牛車に振り回されて車の中を転げ回った上、間違って後ろから降車した

・1日2食という貴族の食慣習を知らず、客人に田舎で食べていたような素朴な食事を質素な食器で無理矢理食べさせようとする

・まじめな話しの最中に冗談を言って相手を激怒させた

などと書かれました。

いずれも都の公家の生活や慣習への無知と、彼の無邪気な性格を笑いものにする内容です。

木曽育ちの野生児・義仲は、明らかにその素朴さを京の人々に受け入れられていませんでした。

 

人間・義仲

しかし、義仲の純粋さは「無知」だけに現れているわけではありません。

自分の気持ちに素直

幼い頃に自分の命を救ってくれた恩人である斎藤実盛を家臣が間違って討ってしまったときに涙を流して嘆く義仲。

死の直前に、北陸に逃げようともせず、幼なじみの今井兼平に会いに行くために危険な瀬田の唐橋へ向かう姿や、兼平に弱音を吐く姿もあります。

女を連れていては格好悪いから付いてくるなと巴を逃がす義仲。

この義仲最期を描写する平家物語の一段「木曽最期」は、優しくてピュアな義仲の悲しいクライマックスです。

 

関連記事 >>>> 「木曽義仲の悲しい最期と優しい気持ちになれる墓」

 

きょうのまとめ

義仲が武将としての駆け引きなどに優れていなければ、源氏の中で誰よりも早く入京し、平氏を追いやることなどできはしなかったでしょう。

しかし、義仲は武将であると同時に、木曽の山の中で豊かな自然と人々の温かい情の中で育った真っ直ぐな性格の持ち主だったのです。

今回の簡単なまとめ

① 木曽義仲の素直な性格は、木曽で自然と愛情の中でのびのびと育ったことによる

② 義仲は私怨を抑え、源氏同士の衝突を避けるよう行動していた

③ 田舎育ちの義仲は京の貴族たちにとっては無骨で滑稽だと馬鹿にされた

死を迎える最期まで深い絆で結ばれた仲間たちと共に戦い、そのことを喜んで死んでいった義仲。

彼の不器用な生き方は、京の貴族社会で権謀術数を駆使する政治家には相応しくはなかったかもしれませんが、いかにも義仲らしい、愛されるべきものでした。

 

木曽義仲の年表を含む「完全版まとめ」記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「木曽義仲とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

 










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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku 明石 白(akashihaku)Facebook https://www.facebook.com/akashihaku