1869年5月18日、箱館の五稜郭がついに陥落。
新政府軍に降伏した旧幕府軍の兵士たちは刀を取り外して恭順の意を表明しました。
しかし、そこにただ一人佩刀したままの男がいたのです。
その男の名は島田魁(しまださきがけ)。
敵も味方もその剛胆さに驚嘆したという新選組隊士・島田魁とはどんな人物だったのでしょうか。
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島田魁はどんな人?
- 出身地:美濃国方県郡(現岐阜県岐阜市)
- 生年月日:1828年2月29日
- 死亡年月日:1900年3月20日(享年73歳)
- 新選組での役職:二番隊伍長、諸士取調役兼監察
- 剣の流派:心形刀流(しんけいとうりゅう)免許皆伝、種田流槍術免許皆伝
- 愛刀:奥州仙台住源兵衛国包
- 墓:京都市東山区東大谷祖廟(納骨先/墓は現存せず)
- 池田屋事件から箱館戦争まで、新選組の主な戦いほとんど全てを戦い抜き生還。戦友たちを忘れることはなく、新選組の元屯所である西本願寺での勤務中に亡くなった。
島田魁 年表
西暦(年齢)
1828年(1歳)美濃国方県郡にて誕生
1863年(36歳)新選組入隊
1864年(37歳)古高俊太郎捕縛に貢献、池田屋事件で活躍
1867年(40歳)油小路事件、御陵衛士による近藤勇襲撃の際、近藤を助ける
1868年(41歳)鳥羽・伏見の戦いにて永倉新八と決死隊を組んで斬り込む
1869年(42歳)弁天台場にて新政府軍に降伏
1886年(49歳)西本願寺夜間警備員となる
1900年(73歳)勤務先西本願寺にて倒れ、死去
島田魁の生涯
筋の通った生き方を貫いた意志の強い人物でしたが、巨漢ながら繊細な一面も持っていました。
つらい少年時代から遅咲きの新選組隊士へ
1828年、美濃国方県郡(現岐阜県岐阜市)の庄屋の次男として誕生。
木曽川の氾濫によって御用材木を流失した責任で両親が自害し、そのあと親戚をたらい回しになりました。
剣に才能があり、名古屋城内の御前試合で優勝し、大垣藩士の嶋田才の養子に。
心形刀流・坪内道場と、種田流槍術道場で免許皆伝を受けるほどの腕前でした。
坪内道場で師範代を務めていたのが十一歳年下でのちの新選組幹部・永倉新八です。
槍術を学んだのはのちに新選組隊士となった谷三十郎と万太郎兄弟が開いていた道場でした。
1863年の新選組への入隊は、永倉のツテだったと考えられます。
島田は36歳という遅咲きの新選組隊士でした。
新選組の主な活動に全て参加
年齢的に遅いデビューだったとはいえ、新選組において島田は幅広く活躍しました。
諸士調役兼監察の任に就き、隊内の取り締まりや粛清など土方歳三の裏の面を支えます。
また、1864年6月古高俊太郎捕縛、翌日の池田屋事件、1867年の油小路事件など、新選組として主だった事件のほとんどに貢献。
のち永倉新八が隊長を務める二番隊の伍長も務めています。
油小路事件で仲間を殺された御陵衛士の残党による近藤勇襲撃の時、狙撃された近藤が乗る馬の尻を叩いて走らせ命を救ったのは島田です。
近藤が流山で投降した後は土方の腹心として箱館まで転戦し、1869年5月の降伏時まで抗戦しました。
謹慎が解けた後は京都で剣術道場を開き、新政府への出仕の話は断り続けています。
1886年に新選組の元屯所だった西本願寺の夜間警備員となり、1900年3月20日にその勤務先で亡くなりました。
敬慕する土方歳三の戒名が書かれた紙を懐に持っていたそうです。
葬儀には、あの永倉新八(杉村義衛)も参列。
島田の遺骨は東大谷祖廟に納骨されています。
印象的なエピソード
剛力の巨漢は大の甘党
島田は、身長182cm、体重150kgと、当時の日本人としては破格の体格でした。
相撲が得意で、ニックネームは「力さん」。
永倉の記録『浪士文久報国記事』には「五斗俵三俵(18リットル×5×3俵)を抱え持つ」剛力だったと記されています。
1868年の鳥羽伏見の戦いで永倉新八らと共に戦った際に、重装備の永倉が土塀を乗り越えられずにいると、島田は自分の銃を差し出し、それを掴んだ永倉を土塀の上へと軽々と引き上げたそうです。
また、彼は大の甘党。
屯所で大鍋一杯の汁粉を作り、それを1人でぺろりとたいらげたとか。
大量に砂糖が入ったその「島田汁粉」は、糸を引くほどの甘さで、仲間の隊士は誰も食べることができなかったのだそうです。
貫く人
酒は一滴も嗜まず遊女も買わない博打もしないという、当時の新選組隊士としては珍しく潔癖な男でした。
戊辰後は謹慎生活を送り、新政府から釈放されたのちに京都に戻ります。
レモネード屋や雑貨屋、剣術道場などを開いたのですが、うまくいかず困窮しました。
それでも新政府への出仕の話は、新選組や戊辰で戦った仲間のことを思い、受けることはありませんでした。
また、のちに榎本武揚が
「旧交を温めたいので宿舎まで来て欲しい」
と伝えてきたのに対し、
「会いたいという奴の方から出向くのが筋だろう」
ときっぱり断ったそうです。
『島田魁日記』に見る土方歳三
島田は戊辰戦争後の謹慎中に『島田魁日記』を記しています。
冷静・客観的で詳細な記録は、新選組の一級史料として貴重です。
彼の記録がなければ、今日まで新選組は人殺し集団で、土方はそれを指揮した鬼の副長と誤解されたままだったかもしれません。
箱館での土方は、まるで母のように兵士たちに慕われ、信頼されていたといいます。
戦場で土方が樽酒を振る舞った時に、無邪気に喜んだ兵士たちとの心の交流など、『島田魁日記』は、人生の終盤にかかる土方歳三の様子を克明に記しています。
「鉾とりて 月みるごとに おもふかな あすはかばね(屍)の 上に照かと」
島田による土方への追悼句とも、土方の辞世の句であるとも言われる句です。
これも島田の残した句集のひとつに残されていました。
きょうのまとめ
島田魁についていかがでしたでしょうか。
島田魁とは?
簡単にまとめると
① 重要事件に必ず名を連ねた新選組の頼れる古参隊士
② 戦友のことを片時も忘れず、自分に恥じない生き方を全うした男
③ 新選組の真実を記録に克明に残した人物
と言えるのではないでしょうか。
その他にも新選組にまつわる色々な記事を書いています。
よろしければどうぞ御覧ください。
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