楊貴妃とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

「世界三大美女」「中国四大美女」として有名な楊貴妃ようきひとはどんな人物だったのでしょうか?

今回はその美しさのあまりに、

国を混乱させる原因になった楊貴妃の人生を、ご紹介させていただきます。

 

楊貴妃とはどんな人

楊貴妃のプロフィール

楊貴妃
出典:Wikipedia

  • 出身地:蜀地方(現在の中国四川省のあたり)
  • 生年月日:719年6月26日
  • 死亡年月日:756年7月15日(享年37歳)
  • 唐王朝9代 皇帝玄宗の皇妃。

    玄宗皇帝から寵愛を受けたことが、国を弱体化させた安史の乱の原因になったことから、
    「傾国の美女」と呼ばれる。

 

楊貴妃年表

年表

西暦(年齢)

719年(1歳)楊玄琰の四女として生まれる。

735年(16歳)玄宗皇帝の息子、寿王李瑁の妃となる。

740年(21歳)寿王妃から玄宗皇帝の後宮に入る。

745年(26歳)「貴妃」の称号を賜る。

756年(37歳)安史の乱の最中、処刑にて亡くなる。

 

傾国の美女!皇帝寵妃の波乱の生涯

楊貴妃の出生

719年、楊貴妃は、蜀地方の下級役人である楊玄琰ようげんえんの四女として生まれます。

本名は楊玉環ようぎょっかんといいました。

幼い頃から、楊貴妃はとても美しかったそうです。

隠士いんし(俗世を捨てて、学問に専念する人)が、楊貴妃の人相を見て、

この娘は皇后のような、尊貴な存在になるだろう。

と予言したという話が、残っています。

寿王妃から玄宗皇帝の寵妃へ

735年、玄宗皇帝と武恵妃ぶけいひの息子である寿王李瑁の妃になりますが、武恵妃が亡くなったのを機に、状況が一変します。

武恵妃を失って消沈していた玄宗皇帝は、楊貴妃を見るとたちまち楊貴妃の虜になりました。

楊貴妃は息子の妃でしたが、皇帝は自分の妃にすることに決め彼女を出家させて、強引に息子と別れさせます。

その後、楊貴妃は玄宗皇帝の後宮に召し上げられました。

皇帝による息子からの「略奪」によって、楊貴妃は皇妃になったのです。

玄宗皇帝は55歳、楊貴妃は21歳。

34歳もの年の差でした。

745年には「貴妃」が贈られます。

「貴妃」というのは、後宮内で皇后の次に格が高い称号です。

先述の通り本名は楊玉環であり、楊貴妃というのは、楊家の貴妃という意味を表す呼び名です。

楊一族の政治の独占

楊貴妃が玄宗皇帝の寵愛を受けるようになると、親族の楊一族が権勢を振るうようになりました。

叔父や兄、従兄弟が政治の要職に就き、姉達も「夫人」という称号を得ました。

皇帝の楊貴妃への寵愛をバックに、傍若無人な振舞いをしました。

そして、後に安史の乱の原因となる楊国忠も「宰相」になりました。

彼らの命令は、皇帝からのみことのりのように扱われ、彼らへの贈り物や賄賂は、門の外まで列をなしたと言われています。

安史の乱と楊貴妃の処刑

755年、宰相の楊国忠に反発した、安禄山という軍人が挙兵します。

これが安史の乱です。

安史の乱の最中に、楊貴妃は処刑されます。

 

楊貴妃にまつわるエピソード

音楽や舞踊に精通した才女だった。

楊貴妃はと玄宗皇帝と一緒に、観劇や詩会を楽しみました。

そして、彼女自身も楽器演奏や舞踏を嗜み、その腕前は相当なものでした。

外見の美しさだけではなく、その豊かな才能が玄宗皇帝を虜にしたといえるでしょう。

太っていたのは間違い?楊貴妃のスタイル。

楊貴妃は太っていたと、一般的に言われていましたが、現在では懐疑的な説だそうです。

楊貴妃が太っていたという説は、宋の時代に書かれた小説が根拠になっています。

しかし、その小説は楊貴妃の時代から200年も後に作られたもので信憑性が低く、

小説が書かれた宋の時代は、ふくよかな女性が流行していたので、そのように描写されたのでは、と言われています。

楊貴妃の時代に近い時代に書かれたものには、

・「細腰だった」

・「ツバメのようだった(儚げだった)」

という描写があり、実際はほっそりとした女性だったのではないかと推測されています。

楊貴妃が愛したレイシ

楊貴妃の好物はレイシ(ライチ)でした。

玄宗皇帝は、楊貴妃のために、嶺南(広東省)から長安(陝西省)までレイシを運ばせました。

レイシは、ビタミンCや抗酸化物質が多く、アンチエイジング効果の高いフルーツです。

美容効果のために、楊貴妃はレイシを好んで食べたのかもしれませんね。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

楊貴妃についていかがでしたでしょうか。

楊貴妃とは?

① 下級役人の娘に生まれ、玄宗皇帝の息子の妃から「略奪」し、皇帝妃になった

② 寵親族の楊一族が政治で権勢を振るった

③ 安史の乱の最中に処刑された

楊貴妃の人生は、波乱万丈なものでした。

「傾国の美女」と呼ばれた彼女ですが、周囲の人間に巻き込まれた悲しい人生だったのだと思います。

 

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