保科正之の子孫はどんな人たち?

 

二代将軍・徳川秀忠の庶子(しょし)として生まれた

保科正之

当初は素性を明かされず極秘扱いで、武田信玄の実妹によって養育されました。

後に兄である徳川家光に実弟であることを認められます。

聡明で実直な性格から家光にも大変信頼され、幕政においても重用されました。

信濃高遠藩主から、出羽山形藩主を経て陸奥会津藩23万石の藩主となりました。

名君と誉れの高い保科正之の子孫はどんな人たちなのでしょうか。

保科正之の子孫について調べてみました。

 

保科正之の子孫とは?

保科正之の子孫についていろいろとご紹介します。

正之の直系は7代藩主まで

保科正之の直系は会津藩7代藩主松平容衆(かたひろ)まで続きました。

しかし容衆は子供をもうけないまま20歳の若さで亡くなってしまったことから、

正之の直系の子孫は7代藩主までとなります。

また容衆は、2代将軍・徳川秀忠の最後の直系男子でもあったことから、

容衆の死は、秀忠の直系子孫の断絶も意味します。

8代藩主の松平容敬(かたたか)は、容衆の弟と言うことになっていますが

家の断絶を恐れて、極秘に水戸徳川家から引き取られた人物です。

つまり、8代藩主以降の会津松平家は水戸徳川家の血統ということになります。

戊辰戦争を戦ったことで有名な9代藩主・松平容保(かたもり)は容敬の甥にあたります。

 

松平容頌(かたのぶ)

5代藩主・松平容頌は、初代藩主・正之以降大きな藩政改革を行いました。

当時の会津藩は天明の大飢饉の影響を受け、財政は破綻寸前でした。

田中玄宰(はるなか)を家老に任命するなどして、改革を行います。

厳しい倹約、荒れた農村の復興、特産品の売買奨励など、

徹底的な藩政改革を行います。

容頌も私的な出費を切り詰め、先頭に立って節約に貢献しました。

会津蝋燭や会津漆器などはこのような政策があったからこそ、

現在でも特産品として伝統を受け継いでいるのです。

また、江戸に「 会津藩産物会所 」を創設し、会津産の物品を販売しました。

まるで、現在で言う「 アンテナショップ 」のようですね。

「 ならぬことはならぬ 」で有名な藩校・日新館を作ったのも容頌と玄宰です。

 

短命な子孫たち

保科正之の後を継いで、会津藩2代藩主になったのは

正之の4男として生まれた、保科正経(ほしなまさつね)です。

長男・次男・3男が相次いで早世してしまったので、4男である正経が嫡子となりました。

この正経は36歳で亡くなっています。

それから正之の直系の子孫である7代藩主までの藩主たちを見ていくと

ほとんどの藩主たちが若くしてなくなっています。

2代藩主・松平正経36歳

3代藩主・松平正容(まさかた)62歳

4代藩主・松平容貞(かたさだ)27歳

5代藩主・松平容頌62歳

6代藩主・松平容住(かたおき)28歳

7代藩主・松平容衆(かたひろ)20歳

3代藩主・正容と5代藩主・容頌を除いて、みな20代の若さで亡くなっています。

本来6代藩主になるはずだったのは、松平容詮(かたさだ)でしたが

藩主を継ぐ前に35歳の若さで亡くなったため、長男の容住が6代藩主になったといういきさつがあります。

このように、正之の子孫たちは皆そろって短命なのです。

きょうのまとめ

保科正之の子孫について、いかがでしたか?

正之の子孫が秀忠の最後の直系男子だったこと、驚きました。

7代まで続いたことを長いと思うか短いと思うかは人それぞれですが、

正之の心は受け継がれているのでしょう。










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