壮絶な最期!楊貴妃の死因についてお話します。

 

世界三大美女のひとり、楊貴妃の死因をご存知ですか。

なんと、首吊りの処刑だったのです。

しかも、寵愛を受けた玄宗皇帝からの命令でした。

皇帝の寵妃として、栄華を誇った彼女の壮絶な最期をその背景も含めて説明します。

どうぞ、ご覧下さい。

安史の乱

楊貴妃の死のきっかけは、安史の乱という反乱です。

まず、安史の乱について説明します。

玄宗皇帝(在位期間712年~756年)の時代。

玄宗皇帝の寵愛を楊貴妃が受けていることに伴い、彼女の親族である楊一族が、政治を独占していました。

755年、安禄山という軍人が反乱を起こします。

楊貴妃の親戚で宰相だった楊国忠の政治に反発したことが原因でした。

これが安史の乱です。

平和に慣れていた唐王朝軍は、反乱軍に太刀打ち出来ず、敗戦を重ねます。

唐王朝軍は首都の長安を制圧されてしまいますが、その後、安禄山の暗殺で反乱軍の勢いが落ちたことや、ウィグル帝国からの援軍を得られたこともあり、なんとか、反乱軍を鎮圧することが出来ました。

しかし、これがきっかけとなり、唐王朝は衰退していきます。

楊貴妃の美しさが、王朝を衰退させた原因となったと言われ、楊貴妃は「 傾国の美女 」と呼ばれるようになりました。

楊貴妃の最期

楊貴妃の最期は、安史の乱の最中のことでした。

安禄山率いる反乱軍の勢いに動揺した玄宗皇帝は、部下と楊貴妃を連れて、長安から蜀地方に逃亡することに決めました。

逃亡中に、玄宗皇帝は、味方の部下達から楊貴妃の処刑を要求されます。

楊貴妃こそが混乱の原因だ、という理由でした。

玄宗皇帝は楊貴妃を庇いますが、楊貴妃を殺害しなければ皇帝自身の身も危ないと、側近の高力士に説得され、処刑を決意します。

玄宗皇帝は楊貴妃に死を命じました。

楊貴妃は静かに自分の運命を受け入れ、絹織物で首を吊ったそうです。

彼女の死因は、処刑による首吊りでした。

その後、楊貴妃は紫の褥(しとね)(※敷物のこと)に包まれて埋葬されたそうです。

玄宗皇帝に楊貴妃の処刑を説得した、高力士とは何者?

高力士は武則天(在位期間690年~705年)の時代に宮廷入りした宦官です。

宦官とは、局部を切断し生殖能力を無くした官吏のことです。

高力士は身長が180cm以上の恵まれた体格の持ち主で、面持ちもハンサムだったそうです。

非常に政治能力が高く性格も温和で誠実だったため、皇帝に気に入られて出世します。

特に玄宗皇帝からの信頼は絶大なものでした。

皇太子選びも、彼の意見が採用された程です。

玄宗皇帝の信頼をバックに、彼は宮廷内で権力を振るいました。

唐代における、宦官の権力の専横は高力士から始まったと言われています。

実は、元々は息子の妃だった楊貴妃を玄宗皇帝に仕向けたのも、高力士の差し金でした。

そして、玄宗皇帝に楊貴妃の処刑を決意させたのも、高力士の説得です。

奇しくも、楊貴妃は自分を皇妃に押し上げた人間の手によって、死が決められました。

終始、楊貴妃の運命は、高力士に握られていたと言っても、過言ではないでしょう。

楊貴妃の死後

玄宗皇帝

玄宗皇帝は、長安に戻った後に楊貴妃の改葬をしようとしましたが、部下の反対にあい、叶いませんでした。

それでも、思いは断ち切れず、密かに宦官に命じて改葬させたそうです。

その後は息子で皇太子の李亨に皇位を剥奪され、幽閉生活を余儀なくされます。

幽閉生活中に、画家に楊貴妃の絵を描かせ、朝夕それを眺めて過ごしたそうです。

高力士

玄宗皇帝の腹心で、楊貴妃の処刑を決意させた高力士は、安史の乱後に長安へ戻ります。

その後、計略に陥れられ地方に流されてしまいます。

2年後に長州に戻ることが許されますが、長州に戻る道中で玄宗皇帝の死を知らされ、激しいショックを受けます。あまりのショックに吐血して、死んでしまいました。

長恨歌

楊貴妃と玄宗皇帝の死後、彼らをモチーフにした「 長恨歌 」という作品が作られました。

作者は唐の詩人の白居易です。

平安時代の日本文学にも影響を与え、「 源氏物語 」にも登場します。

この作品によって、楊貴妃は、広く人々に知られるようになりました。

今日のまとめ

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

楊貴妃の最後についていかがでしたでしょうか。

今日のポイントになります。

① 死のきっかけは、安史の乱でした。

② 死因は、玄宗皇帝の命令による首吊り処刑でした

③ 人生は宦官の高力士に握られていました。

④ 死後、長恨歌という作品が生まれ、楊貴妃の存在は人々に広く知られました。

楊貴妃の死因は、愛する皇帝に命じられ首を吊るという悲しいものでした。

「 傾国の美女 」と呼ばれている彼女ですが、彼女は悪女ではなく、時代に翻弄された、ひとりの女性だったのだと思いました。










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