天皇の息子でありながら臣下に降り、その後もう一度皇籍に戻って天皇に即位したという珍しい経歴を持つのが
宇多天皇です。
さらに譲位したあとは、出家して日本で初めての法皇にもなった人。
さて、宇多天皇とは一体どんな人物だったのでしょうか。
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宇多天皇はどんな人?
- 出身地:京(現在の京都市)
- 生年月日:867年5月5日
- 死亡年月日:931年7月19日(享年65歳)
- 平安前期の第59代天皇。藤原基経の死後は関白を置かずに天皇親政を行う。政治刷新を目指し、その治世は後に寛平の治と称された
宇多天皇年表
西暦(年齢)
867年(1歳)時康親王(のちの光孝天皇)の7皇子として誕生。諱は定省
884年(18歳)父・時康親王が光孝天皇として即位。光孝天皇により皇子皇女全てを臣籍降下され、源定省となる
887年(21歳)光孝天皇が重態に陥ったのに伴い、定省は急遽皇族に復帰し、親王宣下・立太子した。光孝天皇崩御ののち、第59代宇多天皇として即位。阿衡事件で藤原基経が出仕を拒否し、一時政務が滞った
891年(25歳)藤原基経死去。宇多天皇の親政開始
897年(31歳)皇太子・敦仁親王を元服させ、譲位して第60代醍醐天皇が誕生。自身は太上天皇(上皇)となった
899年(33歳)出家して法皇となる
901年(35歳)昌泰の変で菅原道真が大宰府へ左遷となる。東大寺で伝法灌頂を受け、真言宗の阿闍梨となる
913年(47歳)亭子院歌合を開催
931年(65歳)仁和寺において崩御
宇多天皇の生涯
宇多天皇の父親である光孝天皇は、太政大臣だった藤原基経の強い推薦があって天皇即位できた人物です。
宇多天皇も基経の力添えによって天皇に即位した経緯があります。
誕生から天皇即位まで
867年、光孝天皇の第七皇子が誕生します。諱は定省でした。
877年には他の皇子・皇女たちと共に臣籍降下して源姓を賜わると、源定省と名乗りました。
しかし、父親の光孝天皇が亡くなる直前に天皇の意向を知った藤原基経は、定省を後継者として推挙し立太子させました。
そのおかげで光孝天皇の崩御後、21歳の定省は宇多天皇として即位したのです。
阿衡事件とその影響
父親同様、藤原基経のおかげで天皇即位できた宇多天皇は、基経に感謝する意味を込めて、
「全ての政を基経に関白させる」という詔を出しました。
ところが一度は儀礼的に断る基経に対して、重ねて出した詔の中にあった文言
「阿衡」
の解釈を巡って、「阿衡事件」が起きたのです。
怒った基経が出仕を拒否し、半年間も政務が滞る事件へと発展したのでした。
この藤原基経による示威行為、藤原氏の専横に不快な思いをした宇多天皇は、その後、藤原氏を避けるようになりました。
891年の藤原基経の死後は、基経の跡を継いだ藤原時平がまだ若いことをもあり、宇多天皇が親政を行うようになったのです。
天皇親政と菅原道真の登用
宇多天皇は自ら政務を行う際に、学者の菅原道真を側近に登用しました。
宇多天皇による親政では、
・遣唐使廃止
・国史編纂
・文化政策(和歌の再興)
などを柱とした政治刷新が行われました。
この治世のことは後世「寛平の治」と讃えられています。
譲位から出家、そして死
897年宇多天皇は皇太子・敦仁親王に譲位し、太上天皇(上皇)となります。
新たに即位した息子の醍醐天皇には、『寛平御遺誡』という訓戒を与え、特に菅原道真を重用せよと求めました。
しかし、醍醐朝となっても強い宇多天皇の影響力に、醍醐天皇を始め藤原時平や他の朝廷貴族たちの不満は募っていたのでした。
やがて仏教を篤く信仰していた宇多上皇は、899年に仁和寺で出家。
日本で初めての法皇となり、政治へ関わりが薄くなっていきました。
すると901年、藤原時平の讒言により、菅原道真が失脚する政変「昌泰の変」が起きました。
その後、醍醐天皇は宇多天皇や菅原道真の影響を受けることなく、藤原時平を中心に藤原氏と共に政治を推し進めるようになっていったのです。
931年、宇多法皇は仁和寺にて崩御。
享年65でした。
宇多天皇にまつわる逸話
平安時代の歴史物語『大鏡』によって伝えられている宇多天皇の逸話を2つご紹介しましょう。
かつての侍従が天皇に!?
宇多天皇は、皇位に就く前に「王侍従」として陽成天皇のそばに仕えていたことがありました。
例えば、陽成天皇が神社に行幸する際には、舞いを踊る舞人としての役割を果たしたこともあります。
そんな宇多天皇が天皇としての行幸を行った際のこと。
すでに天皇を隠退していた陽成上皇が宇多天皇を見て、
当代は家人にはあらずや
(あれはかつて私に仕えていた者ではないか)
と言ったのだそう。
宇多天皇も、彼が陽成天皇の侍従をしていた時には、まさか自分が将来天皇になることなど考えてもいなかったのではないでしょうか。
実は、宇多天皇と陽成天皇の関係は複雑でした。
陽成天皇が第57代天皇として在位していたときに、その素行の悪さなどが原因で藤原基経が陽成天皇に譲位を迫り、宇多天皇の父親・光孝天皇が即位した経緯があります。
宇多天皇の在位中、そんな陽成上皇がもう一度天皇に返り咲こうとしているという噂もあったとか。
「元は侍従ではないか」と軽んじる陽成天皇は、宇多天皇にとって居心地の悪い存在だったに違いありません。
平安一の色男・在原業平と相撲をとって椅子を壊した!?
こちらも『大鏡』に残る宇多天皇が天皇に即位する前の逸話です。
王侍従など聞こえて、殿上人にておはしましける時、殿上の御椅子の前にて、業平の中将と相撲とらせたまひけるほどに、御椅子にうちかけられて高欄折れにけり。その折目今にはべるなり
(宇多天皇が王侍従として殿上にいらっしゃった時、在原業平と相撲を取って、勢いあまって椅子にぶつかり、肘かけが折れてしまった。その折り目は今もまだ残っている)
なんと宇多天皇と在原業平が、相撲の取っ組み合いをして椅子を壊してしまったという話。
宇多天皇が王侍従だったころといえば、877年から885年にかけてです。
在原業平は880年に亡くなっていますから、877年頃つまり宇多天皇がまだ11歳くらい時の話でしょうか。
平安王朝のプレイボーイでならし、和歌に恋愛にと自由奔放に生きた業平は、最晩年になってもまだ11、2歳の少年のやんちゃ遊びの相手をしてやっていたようです。
幼い頃の宇多天皇にしてみれば在原業平は、周囲の貴族然とした大人たちとは違う面白さのあった人物だったのかもしれません。
在原業平も生まれは平城天皇や桓武天皇の血を引いた非常に高貴な身分の人物です。
父親の代に臣籍降下して在原姓を名乗るようになった境遇は、天皇の皇子から臣籍降下して王侍従だったその当時の宇多天皇と少し似ていますね。
宇多天皇の陵
歴代天皇・皇族は皇居の皇霊殿に祀られており、宇多天皇も例外ではありません。
しかし、それとは別に宇多天皇は
大内山陵という陵墓にも祀られています。
宇多天皇が出家した仁和寺の北約1km、京都市右京区鳴滝宇多野谷にあります。
遺体を仁和寺から大内山に移し、そこで火葬してそのまま土を被せて作った天皇の陵です。
早い時期に場所が不明となっていたのですが、1855年に現在の場所が陵墓であると認められました。
<宇多天皇 大内山陵:京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷>
きょうのまとめ
今回は藤原氏の政治への干渉を避け、天皇親政につとめた宇多天皇の生涯についてご紹介しました。
簡単にまとめます。
宇多天皇とは、
① 臣籍降下して源定省と名乗っていたが、皇籍に戻って第59代の天皇に即位した人物
② 「阿衡事件」の経験で藤原氏の専横を嫌って天皇親政を目指し、菅原道真を登用して「寛平の治」と呼ばれる政治刷新に尽くした天皇
③ 仏教を篤く信仰した日本史上最初の法皇
でした。
平安王朝を牛耳った藤原基経亡き後、天才学者・菅原道真と組んで親政に努めようとした宇多天皇。
譲位をして天皇に即位させてやった息子・醍醐天皇が、まさか藤原時平と組んでそれに対抗してくることを予想できていたのでしょうか。
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