宇多天皇と菅原道真の誇る「寛平の治」と痛恨の極み「昌泰の変」

 

宇多うだ天皇の治世を助けた重臣は学者として名高い菅原道真すがわらのみちざねです。

今回は、この2人を語るときに忘れてはならない「寛平かんぴょう」と「昌泰しょうたいへん」について解説します。

 

菅原道真を登用した宇多天皇の政治の特徴

891年の関白・藤原基経ふじわらのもとつねの死後、宇多天皇は、それまでの天皇たちのように藤原氏に頼らず、彼らとは距離をおいて政治を行いました。

代わりに登用したのが、菅原道真という学者でした。

宇多天皇はなぜ藤原氏を避けたのか?

藤原基経が生前に起こした877年の阿衡あこう事件で、宇多天皇は苦い経験をしました。

基経の無茶な言い分と出仕拒否に振り回され、天皇より関白・基経のほうが強いと藤原北家の力を誇示されてしまいました。

そこで、もともと藤原氏の外祖父を持たず、一族とは関係が希薄だった宇多天皇は、藤原氏の政治介入を避けながら自分で政治を執りました。

当時、藤原基経の後を継いだ息子・時平ときひらはまだ若く、政治的な力も弱かったのも幸いしました。

宇多天皇は菅原道真を登用

代わりに宇多天皇が登用したのは、阿衡事件で怒りを暴走させる基経を諫めてくれた学者・菅原道真です。

並行して藤原時平にも参議の地位を与え、時平の一族である藤原北家に対する表面上のバランスは保っていました。

しかし、宇多天皇は他にも藤原北家以外から優秀な人材を集めました。

これらを藤原氏や他の有力貴族たちは脅威に感じていたようです。

 

寛平の治とは

宇多天皇の治世のことを、のちの人々は「寛平の治」と呼んで讃えました。

4つの政策が主軸となっており、菅原道真の提案が大きく影響しています。

内裏を護る「滝口の武士」の設置

治安悪化に対応して、蔵人所くろうどどころの管轄の警察部隊である滝口の武士を創設しました。

五位、六位の位を持つ武勇と弓矢に秀でた者を試験採用。

内裏の清涼殿の北東にあった小さな滝付近を拠点としたのがその名の由来です。

遣唐使の廃止

894年、遣唐大使(遣唐使のリーダー)菅原道真の提案により遣唐使廃止を決定。

その理由とは、

・唐の国力衰退

・日本が唐文化をすでに十分吸収し終えていたこと

・唐の商船が来日する中、遣唐使派遣で人的財産を喪失するリスクを負ってまで航海する価値がない

・朝廷の財政を圧迫していた遣唐使派遣の莫大な費用の削減

でした。

907年に唐は滅亡しており、道真の指摘は正しかったと言えます。

国史の編纂

菅原道真・大蔵善行らが中心となり、

・『日本書紀』に始まる 「六国史りっこくし」 の最後にあたる書物『日本三代実録』

・編年体でまとめられた「六国史」の記事を分類再編集した『類聚国史るいじゅこくし

などの歴史書制作を行いました。

文化政策の実施

菅原道真が中心となって朝廷権威を復活させる手段の一つとして企画した、

・日本独自の和歌の再興のための、宮廷での歌合わせの開催

・勅撰和歌集の編纂を企画

(醍醐天皇時代に作られた最初の勅撰和歌集『古今和歌集こきんわかしゅう』成立につながる)

などは、日本文化史に大きな影響を及ぼしました。

 

昌泰の変と菅原道真の運命

宇多天皇が897年に突然皇太子・敦仁親王あつぎみしんのうに譲位し、醍醐天皇として即位しました。

そして901年に起きた政変が「昌泰の変」です。

それまで宇多天皇の善政を助けていた菅原道真が、藤原時平の讒言ざんげんによって突然大宰府だざいふに左遷されたのです。

事件の背景

醍醐天皇の代には、藤原基経の息子・時平が左大臣に、菅原道真も学者としては異例の右大臣に昇進して政界の2トップとなっていました。

実は宇多上皇は、譲位後も醍醐天皇の政治に干渉し続けました。

菅原道真を含め、宇多天皇時代の側近たちを醍醐天皇のそばに置いて政治をリードさせようとしたのです。

自分の思う政治が行えない醍醐天皇は不満を持ち、藤原時平や多くの上・中・下級貴族たちも菅原道真の台頭をおもしろく思いませんでした。

ちなみに道真は自分への中傷を知っており、何度も辞職を願い出ていますが全て却下されています。

そんな899年、仏教に傾倒していた宇多上皇が突如出家します。

「宇多法皇」となると彼の政治的影響力は衰え、バックアップを失った道真は朝廷で孤立。

これを機に醍醐天皇と藤原時平が道真に対立していきました。

事件のあらまし

事件のきっかけは、藤原時平の醍醐天皇への讒言でした。

「菅原道真が醍醐天皇を廃立して道真の娘婿である醍醐天皇の弟・斉世親王ときよしんのうを次の天皇にしようと企んでいる」

それを聞いた醍醐天皇は、突然道真に大宰府への左遷を命じたのです。

身に覚えのない道真ですが、命令に逆らうことは許されません。

それを知って驚いた宇多法皇も、醍醐天皇の説得のために内裏に向かいますが、面会を拒否され、道真の左遷を止められませんでした。

この政変で道真の長男・高視たかみをはじめとする子供4人や源善みなもとのよしらも流刑となっています。

この事件は、時平個人による陰謀というよりは、宇多法皇による道真の重用に反感を持った多くの宮廷貴族たちの思いも反映されていたと考えられます。

事件後の怪

菅原道真は政変の2年後903年に大宰府で亡くなりました。

その後、政治に活躍していた藤原時平を含め昌泰の変関係者が、次々と死亡しました。

930年には清涼殿への落雷で、朝廷の要人たちが多く死傷し、3ヶ月後には醍醐天皇も崩御。

人々は、菅原道真の怨霊が原因だったと噂したそうです。

 

きょうのまとめ

今回は宇多天皇と菅原道真が関わった「寛平の治」と「昌泰の変」について解説いたしました。

簡単なまとめ

① 宇多天皇に重用された菅原道真は「寛平の治」を主導し、天皇を助けた

② 宇多上皇の政治干渉に不満を持つ醍醐天皇と道真の台頭をおもしろく思わない藤原時平ら貴族たちにより「昌泰の変」が起き、道真は大宰府に左遷となった

③ 道真の死後、「昌泰の変」の関係者が次々と死亡したのは道真の怨霊のせいだと噂された

「昌泰の変」は、宇多天皇が「寛平の治」で貢献した菅原道真を重用したことが、かえってあだになってしまった皮肉な事件でした。

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku