ワーグナーとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

主にオペラなどの歌劇作品で知られる19世紀の音楽家、

ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー

『タンホイザー』や『ヴァルキューレ』など、たとえ彼の作品は知らなくてもタイトルは聞いたことがある、という方も多いのではないでしょうか。

ロマン派歌劇の頂点を極め、文化人としてもドイツだけでなくヨーロッパ中に大きな影響を与えました。

ワーグナーとは、一体どんな人物だったのでしょうか。

今回は彼の生涯について、功績やエピソードと共に見ていきましょう。

 

ワーグナーはどんな人?

プロフィール
リヒャルド・ワーグナー

Richard Wagner
リヒャルド・ワーグナー
出典:Wikipedia

  • 出身地:ザクセン王国 ライプツィヒ
  • 生年月日:1813年5月22日
  • 死亡年月日:1883年2月13日(享年69歳)
  • 19世紀ドイツロマン主義の音楽家。 作曲家、指揮者、理論家、文筆家であり、「楽劇王」としても知られる。

 

ワーグナー 年表

年表

西暦(年齢)

1813年(0歳)ライプツィヒで誕生。翌年、ドレスデンに移住。

1822年(9歳)聖十字架学校に入学。

1828年(15歳)ベートーヴェンの音楽を知り、音楽家を志す。

1831年(18歳)ライプツィヒ大学に入学。和声などを学ぶもすぐに中退。

1832年(19歳)『婚礼』の完成。翌年、ヴュルツブルクへ赴く。以降遍歴時代に入る。

1839年(26歳)ロシアからパリに移る。

1840年(27歳)借金に苦しむ貧乏生活の中、「パリ音楽時報」に寄稿を始める。『リエンツィ』の完成。

1841年(28歳)ドレスデンで『リエンツィ』が採用される。『さまよえるオランダ人』の完成。

1842年(29歳)ドレスデンへ赴き『リエンツィ』の初演が大成功を収める。

1843年(30歳)『さまよえるオランダ人』の初演。王室ザクセン宮廷指揮者に就任。

1845年(32歳)『タンホイザー』の完成と初演。翌年、ベートーヴェン第9の復刻公演に成功。

1848年(35歳)『ローエングリン』の完成。

1849年(36歳)ドレスデン革命に参加した後、スイスに亡命。翌年、ヴァイマルで『ローエングリン』の初演。

1853年(40歳)全4部作『ニーベルングの指環』の台本を私費出版する。翌年『ラインの黄金』の完成。

1856年(43歳)『ヴァルキューレ』の完成。

1859年(46歳)『トリスタンとイゾルデ』の完成。

1861年(48歳)『タンホイザー』をオペラ座で初演。

1865年(52歳)『トリスタンとイゾルデ』の初演。

1867年(54歳)『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の完成。翌年、ミュンヘンで『マイスタージンガー』の初演。

1870年(57歳)『ジークフリート牧歌』の完成。翌年、『ジークフリート』の完成。

1872年(59歳)バイロイトに移住。2年後、『ニーベルングの指環』4部作の完成。

1876年(63歳)『ニーベルングの指環』4部作の初演。この後、イタリア各地での滞在が増える。

1882年(69歳)『パルジファル』の完成。祝祭劇場で初演。クリスマスにヴェネツィアで上演された『交響曲』ハ長調が最後の指揮となる。

1883年(69歳)2月13日、滞在していたヴェネツィアの館で死去。

 

ワーグナーの生涯

ここからは早速、ワーグナーの主な功績についてご紹介していきます。

頂点を極め終わらせる

30代を目前に控えた年に、オペラ『リエンツィ』の大成功で一気に知名度を上げていったワーグナー。

それからも次々に有名な作品を世に送り出し、やがてはヨーロッパ中に影響を与える音楽家となりました。

ワーグナーがここまで有名になった理由は、一言で言えば音楽界に革命を起こしたからです。

ちなみに彼が頂点を極めたと言われる「ロマン派」音楽の始まりは、ベートーヴェンだと言われています。

ワーグナーは、ロマン派の中でも新たな試みに果敢に挑み、最終的にロマン派を終焉に導くことになりました。

彼が採用した技法はそれまでのオペラの伝統や常識を打ち破るものであり、それらの画期的な技法は、ヨーロッパの音楽界に新たな潮流を生むことになったのです。

オペラ界に革新を

音楽界全体に影響を与えたワーグナーですが、それが顕著に表れているのがオペラ界です。

ワーグナーが現れる前のオペラは、「イタリアオペラ」こそが最も優れていると言われてきました。

イタリアオペラの特徴としては、

アリア → 二重合唱 → 合唱

というように、ひとつずつ区切って構成されていました。

しかしワーグナーは「無限旋律」という形式をとって、間を作ることなく全体でひとつの音楽にしたのです。

その結果、曲に間を作らないための作曲方法が用いられ、楽譜上でも革命が起きました。

ワーグナーのこの革新により、音楽理論のひとつである「調性」が崩れ、後の時代に「無調性音楽」が誕生することになります。

総合芸術家

さらに、曲の構成の他にもワーグナーはオペラの従来の伝統を壊しています。

オペラを制作する際、伝統的には

・劇作

・作詞

・作曲

・大道具

・歌劇場建築

というそれぞれのパートごとで分業し、複数の人員でひとつの作品を作り上げていました。

しかしワーグナーはこれを全て一人で行ったのです。

現在で言うところのプロデューサー的な立ち位置で、オペラをひとつの総合芸術に昇華。

これにより、それまで歌劇だったオペラは楽劇へと変化し、後のオペラに大きな影響を与えることになりました。

ワーグナーの「楽劇王」という異名の由来は、ここから来ていると言えます。

 

ワーグナーにまつわるエピソード

ここでは、ワーグナーに関するエピソードをご紹介します。

音楽との出会い

1813年にザクセン王国のライプツィヒで誕生したワーグナー。

父親は彼が生後半年のときに病死し、1歳のときに母親が再婚して一家はドレスデンに移住しています。

この養父も彼が10歳になる前に亡くなっています。

しかし、音楽好きだった家族の影響を受けて、ワーグナーは自然と音楽好きな少年になっていきます。

そんな彼が本格的に音楽の道を進もうと決意したのは15歳のとき、ベートーヴェンの音楽に触れ深い感銘を受けたことがきっかけと言われています。

超問題児

音楽界に革命を起こし、ヨーロッパ中に影響を与えることになったワーグナー。

そんな偉大なる「楽劇王」の人間性はと言うと、超が付くほどの問題児だったと言えるでしょう。

自己中で傲慢、プライドも高く他人には攻撃的。

まだ無名の貧乏時代、その貧乏の原因は浪費癖による借金にまみれていたからとも言われています。

さらには音楽家として成功した後も、革命軍に参加しそこで先頭に立っていたことから指名手配されていた時期もあります。

様々な破天荒エピソードと強烈なカリスマ性を持つワーグナーは、それ故に現代でも好き嫌いがはっきり分かれる音楽家なのです。

 

きょうのまとめ

今回は19世紀を代表する「楽劇王」、ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーの生涯について、功績やエピソードと共にご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、ワーグナーとはどんな人物だったのか簡単にまとめると

① 19世紀のドイツを代表する音楽家。

② オペラの伝統を改革し、ヨーロッパ音楽界に新しい潮流をもたらした。

③ 癖の強い性格から、好き嫌いがはっきり分かれる音楽家としても知られている。

性格に問題ありだった楽劇王、ワーグナー。

しかし彼の功績は間違いなく歴史に残る偉大なものであり、その作品は今でも多くの人を魅了します。

興味を持たれた方は是非一度、彼の世界を覗いてみて下さい。

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