豊臣秀吉の朝鮮出兵 その理由と結果

豊臣秀吉 とよとみひでよし

 

天下を統一し、戦乱の世を終わらせた

豊臣秀吉とよとみひどよし

なぜまた戦いを求めて海を渡り、わざわざ朝鮮へ出兵したのでしょうか。

その結果として、後の豊臣政権にどのような影響をもたらしたかは、

結構ぼんやりしたイメージしか持っていない人も多いのではないでしょうか?

そこで今回は、豊臣秀吉の最晩年の大事業ともいうべき「朝鮮出兵」についてみていきたいと思います。

 

朝鮮出兵とは

豊臣秀吉

豊臣秀吉
出典:Wikipedia

豊臣秀吉が行う朝鮮出兵は、1592年~1598年に行われ、

途中の休戦期間を挟み「文禄の役・慶長の役」と言われています。

1592(文禄元年)に始まり、翌1593年(文禄2年)に休戦したのが「文禄の役」

1597年(慶長2年)の和平交渉決裂によって再開され、

翌1598年(慶長3年)の秀吉の死去に伴い、日本軍の撤退で終結したのが「慶長の役」です。

 

朝鮮出兵を決断した理由

秀吉が朝鮮へ出兵する理由については、はっきりとした理由が分かる資料は残っておらず、謎につつまれています。

一般に多く流布しているものには、次のようなものがあります。

・秀吉の老齢による妄想的な領土拡大

・大名たちに与えるための領土獲得

・力のある大名の戦力を奪い脅威を取り除くため

歴史は、さまざまな情勢が絡まって成り立っています。

この時代における日本と世界とはどういう状況だったのでしょうか。

少し別の角度から、秀吉の「朝鮮出兵」について見ていきましょう。

信長から秀吉に受け継がれた日本

世界を認識した信長

戦国時代の始まりと言われる応仁の乱が1467年。

織田信長が上洛を果たした1568年には、戦乱の世の中は既に100年を越えていました。

西洋から渡ってきた鉄砲を活用し軍団をいち早く近代化し、先見性を持った信長は何を思っていたのでしょう。

遥か彼方の国から、はるばる海を越えて強力な武器を携えてやってきた目の青い人たちの目的とは、、、。

信長は、彼らが単に友好関係を結びに来てくれたとは思わなかったでしょう。

情報戦にも優れていた信長が、

「スペインが南米・北米・アフリカの植民地支配に続き、フィリピンを既に掌握し、東アジア地域支配に向けた戦略本部的な総督府を置いていたことも知っていた」

とするのが妥当です。

ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスに地球儀を見せられた瞬間、信長は「世界」を認識し、「日本」という自分の国を意識したに違いありません。

 

天下統一へ

世界の強国が弱い国々を征服して目の前に迫ってきているのを知った信長。

国内で争っている状況に焦りを覚えたことでしょう。

渡来する外国人からもたらされる情報を知れば知るほど、

信長にとっての最大の目的は、

「戦乱の世を終わらせるために天下を統一すること」

になったのかもしれません。。

そしてそれを受け継いだのが秀吉です。

天下統一された日本と周辺国情勢

上述した情勢を考えると、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉にとって一息つく暇はなかったはずです。

甥にあたる「秀次」を後継にして国内の統治を任せます。

自らは朝鮮出兵に専念するために、国内の拠点である「名護屋城(佐賀県唐津市)」に入ります。

ここで疑問になってくるのは、なぜ朝鮮への出兵だったのかということです。

スペインの世界征服戦略に対抗するのであれば、スペインに備えればよいのではないかと思えます。

この時期のスペインと日本の状況をみていきましょう。

■スペインの状況

・「太陽の沈まぬ国」と称されたスペイン王国も、無敵艦隊はイギリスに敗れ徐々に衰退

・海を越えて攻め込むには数的限界があり、日本に防戦体制を取られると撃退される可能性の方が高い

■日本の状況

・渡来した鉄砲をコピーし、驚異的なスピードで量産

・組織的に戦うことができる戦闘集団が多数存在

こうしたことから、スペインは直接対決の形を取ることは避けた方がよいという結論に至ります。

そこでまず明(中国)に目を付け、日本に対しては宣教師を派遣。

表面的には平和的な、対等な関係を取り結ぶ方策を取ります。

一方、日本を総攬そうらんする豊臣秀吉は、明がスペインに従属させられ、その圧倒的な数的優位と近代化された武器で一気に攻め込んでくることを危惧することになります。

総攬:統合して一手に掌握すること。

日本の最も近くへ大陸から突き出している朝鮮半島は、明に冊封さくほうされた朝鮮王国です。

明が軍を行使して攻め込んでくる、「朝鮮半島を支配下に置く」ことは、国防の最善策となっていくのです。

 

朝鮮出兵の結果

文禄・慶長の役と言われる、豊臣秀吉の朝鮮出兵。

日本からは16万もの軍勢を派遣、対する朝鮮・明(中国)連合軍の戦力は25万でした。

これは日本国内を2分して戦われた関ケ原の戦いでさえも、東軍7万に対し西軍8万だったことを考えると、その規模の大きさが推し量れます。

秀吉が圧倒的な力を有していたとはいえ、各藩の大名がここまで協力的に兵を出したのは国内の平和と対外的な国防という秀吉の考えに賛同していたからと言えるかもしれません。

しかし、

・秀吉の死去による「国内で五大老間の確執」

・自立できていない「秀頼」などの国内の不安定さ

が大きな要因となり、朝鮮出兵は終わりをむかえます。

この大規模な戦いによって、日本は徳川家康が天下人となるまで争乱の世に戻ります。

そして朝鮮、中国もその国力を疲弊させる結果を招くのです。

一方、注目したいのは大航海時代に世界各地へ触手を伸ばし、征服を推し進めていた列強の筆頭ともいうべきスペインに、

「国力・軍事力共に一目置かれる存在感をアピールすることができた」

ということです。

実際、朝鮮出兵と同時に秀吉はスペインに対して対等な関係ではなく、臣下の礼を取るように要求しています。

以後、世界の列強が日本に対して、簡単に征服的な介入のできない状況を作り出したことは、対外政策において大きな成果だったと言えます。

 

きょうのまとめ

いかがでしたでしょうか。

秀吉が目指したことと、国内・国外情勢を軸に、朝鮮出兵の理由と結果をまとめてみましょう。

①天下統一後、国内の争乱が終結。国外にも目を向ける必要があった

②スペインが世界征服の触手をアジアへ。既にフィリピンを拠点にしていた

③明(中国)を攻略したスペインが朝鮮半島経由で日本に攻め込んでくることを恐れた

④先手を打って朝鮮半島を軍事的におさえようとした

⑤秀吉の死後、国内不安定化により朝鮮から撤退

⑦朝鮮出兵にて、西洋列強に対し軍事力を見せつけた

豊臣秀吉を、戦乱の世を終わらせた後、日本というまとまりを意識させ、

対外政策にあたった人物として、もう一度見直すことも出来るのではないでしょうか。

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