春日局 | あまり知られていない実の子供たち

 

春日局(かすがのつぼね)と言えば、三代将軍・徳川家光の乳母として有名な女性です。

家光の将軍継承を、徳川家康に直訴したりと強い女性の代名詞とも言えます。

このように家光の乳母というイメージが強い春日局ですが、

乳母になる前に結婚していた稲葉正成(いなばまさなり)との間には

三人の子供を儲けていました。

あまり知られていない春日局の実の子供たちにスポットを当てて見ましょう。

春日局の実の子供たち

春日局の実の子供は三人います。

それぞれにスポットを当てて見て行きましょう。

稲葉正勝(いなばまさかつ)

稲葉正勝は、正成の三男で、春日局と稲葉正成にとっては長男となります。

稲葉家は、本来であれば先妻との間に生まれた嫡男・稲葉正次(いなばまさつぐ)

が継ぐはずでしたが、継母である春日局が家光の乳母になったため、

春日局が生んだ稲葉正勝が稲葉家を継ぎました。

幼い頃から家光に小姓として仕え将来を有望視されていました。

将軍直属の親衛隊である「 書院番(しょいんばん) 」に命じられるなど、

家光からの信頼も厚い人物でした。

母親の七光りもあったでしょうが、利発で思慮深い優れた人物だったと言います。

26歳の時には老中に命じられ、柿岡藩(かきおかはん)1万石から2万石、さらに父親が亡くなると、

父親の所領だった下野真岡藩(しもつけもおかはん)を相続し二代目藩主となり4万石となります。

最終的には相模小田原藩8万5000石となりましたが、

吐血するなど、体調を崩し38歳の若さで亡くなりました

正勝の息子である稲葉正則(まさのり)は、その時既に母親も亡くしており、

まだ幼かった事から、祖母である春日局に養育されます。

この家系は、山城淀城主として明治時代まで続くことになります。

稲葉正定(いなばまささだ)

春日局の子供たちのなかで最も残っている記述が少ないのが稲葉正定です。

亡くなった日も定かではありません。

稲葉正成にとっては四男、春日局にとっては次男となります。

徳川家康の九男で、御三家の一つである尾張徳川家の祖と言われている、

徳川義直(とくがわよしなお)に仕えました。

父の稲葉正成が居城としていた、美濃十七条城を拝領し1千石を与えられます。

孫の代で子供がなく、正定の家系は断絶してしまいます。

稲葉正利(いなばまさとし)

稲葉正利は、稲葉正成の五男として生まれました。

春日局にとっては三男になります。

正利は家光の弟である徳川忠長(とくがわただなが)に仕えることになります。

しかし忠長の度重なる行き過ぎた行為により、改易・徐封されることが決まると

家臣も連座して処分を受けることになってしまいます。

病に犯されていた兄・正勝の最後の願いとして、肥後の細川忠利(ほそかわただとし)

に預けられることになりました。

細川忠利は正勝の親友でもあり、春日局とは縁戚関係にもありました。

見ず知らずの大名に預けられるよりは、という心遣いでしょう。

しかし、肥後を自由に歩きたいという要望を断られると、忠利は度々奇行に走るようになります。

忠利が諌めても奇行が続いたことから、春日局自らが自害させるべきと言うまでになります。

何の罪も犯していないのに、刑を受けなければいけなかったわけですから、

正利の気持ちも分からなくはないですよね。

正利は幕府から許されることなく、40年に渡って預けられ74歳の生涯を閉じました。

きょうのまとめ

春日局の三人の子供たちについて見てきましたが、いかがでしたか?

長男・正勝と三男・正利はその境遇がまったく正反対で、少し悲しくなりますね。

忠長に仕えなかったら、正利の人生は変わっていたでしょう。

春日局の気持ちを考えると、なんともいえない気持ちになります。

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