徳川慶喜|大政奉還は二条城で行われていない!?

 

大政奉還

江戸幕府最後の将軍

徳川慶喜とくがわよしのぶが政権を朝廷に返し、明治という新しい時代の始まりのきっかけになった出来事だと頭に浮かびますよね。

行われた場所は京都の二条城。

修学旅行で訪れたことがある方が多いのではないでしょうか。

鶯張りの長い廊下を歩いていくと大広間に着き、そこで目に入ってくるのは大政奉還の様子を再現している人形達。

ですから、ここで行われたと思ってしまいます。

しかし、実は大政奉還は二条城で行われたわけではないようです。

見ていきましょう。

 

二条城と徳川幕府

二条城は、徳川幕府(江戸幕府)の始まりと終わりの場所となりました。

初代家康が朝廷から征夷大将軍の宣下を受けたのが二条城でした。

そして最後となった15代将軍慶喜が政権を朝廷に返すことを決めたのも二条城でした。

運命的な感じがしますね。

しかし、なぜ二条城だったのでしょうか。

二条城とは?

二条城と呼ばれるものは日本史において何度か登場します。

室町幕府の足利尊氏から義満まで3代の将軍が都の二条に屋敷を構え、

それを「二条城」、「二条陣」と言ったそうです。

後に15代将軍義輝の居城として織田信長によって作られた城も二条城。

豊臣秀吉も聚楽第ができるまで二条に城を構えました。

そして現在私達が知っている二条城は、徳川家康が京都所司代を任じられた時や上洛時の宿所として造営したものです。

つまり、時の権力者が二条に建物を作ったことから重要な位置付けになっていったようです。

徳川幕府を見届けた二条城

家康が作った二条城。

1603年に朝廷から将軍宣下を受けた際、祝賀の儀を行いました。

徳川幕府の始まりです。

その後豊臣秀頼や後水尾天皇を迎えたり、大阪夏の陣、冬の陣の時に二条城から出陣しました。

3代将軍家光が上洛して以降は14代家茂が入るまで将軍が来ることはなく、天災や火災でボロボロに荒れてしまいました。

家茂上洛の際、財政難から二の丸をなんとか修理をして使いました。

そして、1867年15代将軍慶喜によって大政奉還が行われ、幕府は終わりました。

武家政治の終わりでもありました。

徳川の治世の始まりを祝った場所で、幕府の幕を降ろすことになるとは慶喜の心中はさぞや複雑であったに違いありません。

二条城は徳川幕府を静かに見続けてきたのですね。

二条城では大政奉還は行われていない!?

大政奉還

大政奉還図
出典:Wikipedia

日本史の史料集でよく目にする、大政奉還の場面の絵がありますね。

あれは、1867年10月13日徳川慶喜が、二条城二の丸御殿大広間に上洛中の40藩の重臣達を招集し、大政奉還を諮問した一場面。

でも、実は

「政権を朝廷に返すことにしました。何か意見がある者は?あるなら将軍様に伝えるから、残って。」

と老中が言い、薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎ら6人以外はみんな帰ってしまった・・・。

そこへ慶喜が大広間へやって来たそうです。

実際は、大政奉還草案承認要求の場だったということでしょうか。

当時、将軍様に意見なんてできるわけありません。

ともあれ、その翌日「大政奉還上表」を朝廷に提出しました。

そして10月15日に朝廷側上層部と慶喜達幕府とで会議をし、認められ、大政奉還成立となったわけです。

したがって、厳密に言うと、大政奉還は二条城で行われたのではなく、

その意思を決定した所ということです。

 

きょうのまとめ

簡単にまとめます。

① 二条城は、徳川幕府の始まりと終わりを見届けた城である

② 二条城で行われたのは大政奉還そのものではなく、大政奉還について重臣達に諮問し、決定した場所である

二条城二の丸御殿の大広間には慶喜や大名達の人形が勢揃いし、

大政奉還に至る場面をリアルに再現しています。

大政奉還を決めた歴史の転換点となり、

幕末史をたどる上で欠かすことが出来ない城。

それが二条城です。

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