和宮の替え玉伝説と失われた左手首

 

幕末・明治に波乱万丈を生き抜いた皇女

和宮(かずのみや)。

彼女が亡くなって140年あまり。

しかし、
そのあまりにドラマチックな人生は

いまなお人々の心に鮮やかに。

そんな和宮には、
いくつかのナゾめいたエピソードが付きまといます。

そのひとつは替え玉だった。

あるいは、
左手首がなかった。

はてさて、
いつの世にでもある荒唐無稽(こうとうむけい)のたぐいか。

あるいは、
悲劇の皇女にかくされた真意か。

今回はそんなミステリーにせまってまいりましょう。

 

皇女和宮の生い立ち

仁孝天皇の第八皇女として生まれ、

幼いうちから同じく皇族である男性と将来の結婚を確約し、

世が世であれば、
そのまま平穏に皇女らしい人生をまっとうしていたのかもしれません。

が。

まだいたいけな女心をよそに、
世には荒々しい乱世の風が吹きすさびつつあったのです。

「江戸へ」

少女は隠然として一方的で絶対的な大人たちの都合を拒み続けますが、

やがては逃れがたくなります。

そして、ここに何かがうまれることを兆します。

 

和宮の「替え玉説」

江戸に降嫁したのは「替え玉」である。

時代の好奇はそうささやきます。

しかし、
「根も葉もない」
としてただに吐き捨てることはできるでしょうか。

ただでさえ人の世。

しかも、「時」の「最高権力」らの暗幕の向こうでそれは執り行われていたのです。

もし、この女性が本当に「替え玉」なら、

彼女はいったい何者であり、
何を思って御台所(みだいどころ。将軍の正妻)となり、
何を思ってその城の最奥に生きたのでしょう。

やがて彼女に来るべきたくさんの波乱万丈に対して、
意味合いがまったく異なってきます。

 

和宮の“左手首”

私たち人間は
探求と想像のできる生き物です。

今一つ奇怪なのは“左手首”の説です。

そもそもの始まりは

いまだ敗戦の記憶も生々しい1950年代。

代々徳川の菩提寺である

増上寺の墓所が売りに出されるにともない、

一帯の発掘調査が行われたのです。

歴代の将軍とその御台所の墓や遺骸(いがい)もあらためられました。

その時です。

一体の女性の遺骨に不自然なところが見つかりました。

そうです。

その女性は和宮。

そして、その左手首がすっかりと見当たりません

在世当時、
朝廷側にも将軍家側にもそのような記述資料は一切見当たりません。

さらに、もう一つ不思議なことに、

和宮の在世当時の肖像画を見てください。

すべて、それは左の袖(そで)に隠れてしまい、見あてることができません。

ただ一枚、
明治になってからの写真が彼女の左手をはっきりととらえております。

これはいったい何を意味するのでしょう。

やがて、
そういったいくつもの事実や憶測が昭和を代表する一人の女流作家の中で醸成(じょうせい)され、

ひとつの大作が生まれます。

有吉佐和子
『和宮様御留(かずのみやさまおとめ)』

すでに2度テレビドラマ化されているとあって
知っている人も少なくないのでは。

なにげなく生い育った一人の平凡な少女が、

京のある公家の屋敷に仕え、

“見こまれて”ゆきます。

やがては、
「皇女」として身代わり、江戸に下ってゆくことになりますが、

一人の少女としての思いと、あまりに大きすぎる世の流れ。

続きはぜひその目でご覧ください。

 

きょうのまとめ

和宮の墓があらためられた時、

その棺(ひつぎ)の中にはある一人の人物が映る一枚の写真乾板(かんぱん)がおさめられていたようです。

烏帽子(えぼし)に直垂(ひたたれ)姿の若い男性。

残念ながら、
保存状態が悪く、
さらに発掘者の不手際によって、
そこに映っていた姿は間もなく消え失せてしまいました。

ただ、その人の正体は夫「家茂(いえもち)」だ、
と強く言われております。

一方で、
家茂の棺からは女性の髪が見つかりました。

DNA鑑定の結果、
和宮のものとは異なったようです。

その真相については、
いろんな可能性が想像されます。

① 和宮には「替え玉説」がある

② 和宮とされる遺骸には「左手首」がない

③ 和宮のものとされる棺には立派な武家衣装をほどこした一人の若い男性の写真乾板が、家茂の棺には不可解な女性の髪が、副葬されていた

一人の少女の思いが乱世に胚胎(はいたい。みごもること)した“ミステリー”です。

 

和宮に関する【完全版まとめ】はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「和宮とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

 










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